TVアニメ『86-エイティシックス-』における「高潔」の意義:インティマシー/インテグリティーの観点から
はじめに
ちょうど、東京では桜が満開を迎えている。桜の花をドイツ語でキルシュブリューテ(Kirschblüte)という。桜が美しい散り際を見せる時節に、TVアニメ『86-エイティシックス-』の最終回放送がずれ込んだのは面白い偶然だ。そのアニメは「キルシュブリューテ」というパーソナルネームを持つ少女を、戦場で無残に散らせたのだから。
本作は2021年4月から6月にかけて第1期(前半11話)の放送が行われ、2021年10月からは第2期の放送が始まったが、「制作の都合」および「より良いクオリティで、第2クールのクライマックスをお楽しみいただくため」という理由により放送の延期が重なり、2022年3月にようやく全23話の放送が結了した。本作はサンマグノリア共和国とギアーデ帝国という隣接する両国間の戦争を、戦争に翻弄される兵士たちに焦点を合わせて描いた作品である。星歴2148年、サンマグノリア共和国は東の隣国・ギアーデ帝国から10年にわたる侵略を受けていた。帝国は完全自律無人戦闘機械「レギオン」を実戦に投入、これに対して共和国も無人戦闘機械「ジャガーノート」を開発して応戦し、東部戦線は死傷者数ゼロのまま膠着状態に入っている――というのが表向きの報道である。しかし、この「死傷者数ゼロ」には、人間として認められていない、つまり人権の享有主体として扱われていない者たちが戦死しても、死傷者数にはカウントされないというからくりがあった。
共和国では、全85区を取り囲む大要塞壁群の外側に放逐・隔離された「存在しない」86区住民、通称「エイティシックス」をジャガーノートに乗り込ませ、全滅するまで戦場を前進させるという非人道的な作戦がとられていた(ちなみに、“eighty-six”とは「お断り客」を意味する英語のスラングである)。共和国は銀髪銀瞳の白系種以外の有色種をエイティシックスとして壁の外に排除しつつも、エイティシックスの犠牲のうえに存続するという歪な構造をしている。そして、前線でジャガーノートを駆ってレギオンと戦うエイティシックスの少年少女はコンピューターの処理装置になぞらえて「プロセッサー」と呼ばれ、安全地帯である壁の内側に陣取る白系種の士官「ハンドラー」の遠隔指揮を受ける。この遠隔指揮を可能にする「パラレイド」という知覚同調技術すらも、幾人ものエイティシックスの子供を使った人体実験の末に実用化されたものであった。
本作の物語は、史上最年少で少佐に昇進したエリート軍人ヴラディレーナ・ミリーゼ(愛称レーナ)が、エイティシックスの精鋭で構成されたスピアヘッド戦隊のハンドラーに着任するところから始まる。レーナは共和国軍部の腐敗を嘆き、あくまで共和国の理念(次節で詳述)を貫こうとする。レーナはエイティシックスを対等な人間として扱うべく、隊長のシンエイ・ノウゼン(愛称シン)以下、スピアヘッド戦隊の構成員たちと夜な夜な対話を試みるが、戦況が悪化の一途を辿るなか、彼らの苛酷な境遇を十分に知らなかった自分に慙愧の念を抱くにいたる。共和国軍部は帝国製のレギオンの中央処理装置が寿命を迎える日も近いと踏んで、エイティシックスを尖兵として使い潰しつつ、来たる終戦の日まで呑気に構えていた。しかし、レギオンは戦場に残った人間、すなわちエイティシックスの脳を取り込み、構造図を上書きすることで耐用年数を延ばしており、共和国軍部の楽観はやがて打ち砕かれることになる。
本作の第1期(第1話~第11話)では、シンがレギオンに取り込まれた兄・ショーレイを撃破し、弔う場面をクライマックスとして、スピアヘッド戦隊の生存者5人が共和国の管制外に脱出するまでが描かれる。第2期(第12話~第23話)では、レギオンの暴走によって自壊したギアーデ帝国の後継国家・ギアーデ連邦に保護されたシンたち5人が、帝国最後の女帝・フレデリカとともに連邦軍の急先鋒として、レギオンに取り込まれたフレデリカの近習・キリヤを打ち倒すまでが描かれる。共和国における奴隷的処遇から解放されてもなお、戦場にしか生きる意味を見出せない根無し草の少年兵の悲しみが、亡国の女帝の孤独とオーバーラップして物語を彩る。
本稿では、インティマシー(intimacy)/インテグリティー(integrity)という概念対を用いて、本作のキーワードの一つである「高潔」に着目した分析を行う。本稿はまず、インティマシー/インテグリティーとは何かを説明し、それに続けて本作のセリフや描写を具体的に検討する。本作においてはインテグリティーを標榜する側の論理が上滑りし、理念が空転するさまが際立っているが、これが日本近代の宿痾と言いうる可能性についても、本稿の最後で指摘する。
インティマシー/インテグリティーとは何か
本作において、サンマグノリア共和国は自由・平等・博愛・正義・高潔を表す五色旗を国旗として掲げている。これらの理念のうち最初の3つは、フランス第五共和政憲法の第2条をすぐに想起させる。
この3つに正義と高潔が付け加わって、本作における共和国の理念が形成されている。自由、平等、博愛(同胞愛)、そして正義という観念はすぐれて西洋的なものであるから、そこに続く「高潔」についても同様のものと捉える余地はあるように思われる。以下、本稿では「高潔」を「インテグリティー」の訳語として解釈することにする。
インテグリティーは西洋において重視される概念であり、特に政治家やビジネスパースンに求められる美徳と考えられている。インテグリティーは「高潔」、「誠実」、「無欠」などと訳されることもあるが、これらの訳語がインテグリティーという概念の精髄をあらわしているとは言い難い。手許のOxford English Dictionary(OED)第12版でintegrityを引いてみると、次のように説明されている。
この辞書的な説明でも判然としないため、哲学者のトマス・カスリス(Thomas P. Kasulis)の著書『インティマシーあるいはインテグリティー:哲学と文化的差異』(2002年)に依拠して、インテグリティーとは何かを整理することにする。
日本哲学を専門とするカスリスは数々の具体例を挙げながら、インティマシー/インテグリティーという一対の概念を掘り下げて論じている。カスリスによると、文化的指向性(cultural orientation)としてのインティマシー/インテグリティーは社会のオペレーティングシステム(OS)のようなものであり、さまざまな局面で二者択一のかたちをとってあらわれる。2つのOSのあいだに優劣はなく、同じ問題に対する解決の前提が異なるだけである。ただ、どちらを選ぶかによって、OS上で動作する互換ソフトウェアのバリエーションが変わってくるというわけだ。
この2つの対抗的な概念のうち、インテグリティーについて、カスリスはダムの比喩を用いながら端的に説明している。
カスリスは別の箇所では、インテグリティーをカントの定言命法(kategorischer Imperativ)に結びつけて説明している。
別の言い方をすれば、インテグリティーはある程度嫌な相手であっても付き合えるよう、一定の交際ルールを定めようとする。「ここからは私の領域なので、無断で立ち入るな」という領域を一人一人に割り当てて境界線を引く。こうした考え方から、法(権利・人権)、デモクラシー、自由、平等、正義、責任、妥協といった観念が生まれてくる。インテグリティーが「高潔」と訳される背景には、このような個々人の自律性の尊重が控えている。
以上述べたように、インテグリティーは外的関係への所属(belonging-to)としてあらわれる。これに対して、インティマシーは内的関係への共属(belonging-with)として成り立つ。そのため、後者は破綻すると、両方の関係項が自身のアイデンティティーの一部を失うこととなる。カスリスは内的関係の一例として恋愛関係を挙げており、愛情に満ちた状態が破綻を迎えると、二人は「文字通り自分自身を失う」と述べている(同書86-90頁)。交際の途絶によってパートナーとの思い出の数々は過去のものとなり、心にぽっかり穴があいてしまう。仮に次の出会いの機会が訪れたとしても、再び一から他人と関係を深め合い、インティミット(intimate)な関係にいたるまで心の距離を縮めるには多大な労力を要することになるというわけだ。
カスリスはインティマシー/インテグリティーという概念対について、倫理学の観点からも整理を行っている。
インティマシー/インテグリティーは社会のOSの違いなので、どちらを採用するにしても倫理というソフトウェアは何かしら動作する。とはいえ、インティマシー/インテグリティーのどちらも暴走する危険を孕んでおり、ひとたび暴走すれば社会には弊害がもたらされることになる。この点については節を改め、本作のセリフや描写を具体的に検討しながら整理する。
インティマシー/インテグリティーの暴走
カスリスはインティマシー/インテグリティーの基本的な特徴をそれぞれ5つの項目に分けて整理している。前節までのまとめも兼ねて、ここで掲げておく。
以上の整理を踏まえると、本作は第1期・第2期ともにインティマシー/インテグリティーのせめぎ合いで構成されていると言うことができる。サンマグノリア共和国は自由・平等・博愛・正義・高潔というインテグリティーから発した理念を掲げているが、実態においてはエイティシックスを「存在しない人間」(non-person)として排除し、白系種を中心としたインティマシーの沼に沈んでいる。次に引用するカスリスの記述は、本作における共和国の問題点を直截に言い当てている。
カスリスの議論を裏返して言えば、排除とは反対に、招かれざる客が自分たちに危害を加えてくる結果を避けるべく、相手の気持ちを和らげ、インティミットな重なり合いに巻き込もうとすることもありうるだろう。インティマシーに染まった人間は、相手に贈り物をしたり、声がけをしたりして「内輪」の仲間になりたがる。だからこそ、インティマシーの堕落形態は、袖の下(賄賂)、縁故主義、内部告発者に対する制裁、村八分といった様相を呈することになる。
話を本筋に戻すと、インティマシーに浸りきった共和国軍部を批判し、エイティシックスを「人型の豚」ではなく対等な人間として扱おうとするエリート軍人のレーナは、インテグリティーを体現する人物である。しかし、本作においてインテグリティーの理想を追求する彼女は世間知らずの小娘のように描かれる。第8話において、レーナの上官であるカールシュタール准将(レーナの父の友人であり、レーナの後見人的地位を占める)は、レーナに対して次のように語る。「自由や平等など早すぎたのだよ、レーナ……。我々人類には、おそらく、永遠に……」、「希望や理想を唱えるのは自由だが、それでは誰も動かせない」、「絶望と希望は同じものだよ……望むけど叶わない。その表と裏に違う名がついているだけだ」。諦念に満ちたカールシュタールの言葉は「アンチリベラル」派の冷笑を彷彿とさせる。ただし、第16話において、レギオンが大要塞壁群に迫るなか、カールシュタールが次のような言葉を残したことは附言しておくべきだろう。「夢を見るのは子供の特権だ、ミリーゼ大尉……〔注:レーナは迎撃砲無断使用のかどで大尉に降格となった〕。そして、子供が夢から醒め、無慈悲な現実を知って打ちのめされるまで、それを守ってやるのが大人の役目だ。時間くらいは稼いでやろう。せいぜい打ちのめされるといい、レーナ、お前の望んだ甘ったるい夢が、現実の前に壊れていくさまに」。このセリフをあわせて考えると、「自由や平等など早すぎた」という言葉も冷笑のススメとまでは言い切れないだろう。とはいえ、最終的には情にほだされたという点で、カールシュタールがインティマシーを貫いたことも確かである。やはり、共和国においてインテグリティーの概念は画餅にすぎないのだ。
また、第2期から登場するギアーデ連邦暫定大統領のエルンスト・ツィマーマンは、狂気さえ感じさせる教条的理想主義者として描かれる。エルンストはエイティシックスに対して、差別の呪縛から解放された自律的な人生のあり方を提示する。しかし、インテグリティーの重要性を謳い上げるような彼の言葉はエイティシックスに届かず、シンたち5人は連邦軍への入隊を志願して、再びレギオンとの戦闘に身を投じる決意を固める。第18話において、エルンストは連邦の国是は「正義」であると強調する。フレデリカの近習・キリヤを取り込み、電磁加速砲を装備した強力なレギオン「モルフォ」の襲来により、戦場慣れしたエイティシックスの5人を再び前線へ送らざるをえなくなったことについて、エルンストは「中将、これは一年越しの消毒ではないのだよね?」、「人でありながら言葉によらず、言葉を尽くさず、ただ暴力をもって我を通すなんてことは許されない」と主張する。戦場の狂気が生んだ化け物・エイティシックスを受け入れることが本当に連邦の理想にかなうのかという中将の問いに対しても、エルンストは「正義」と「高潔」という言葉を用いて肯定の返答をする。
第19話において、モルフォとの戦局が絶望的な状態に陥るなか、エルンストは次のように長舌を振るう。
帰還不能点(point of no return)にいたってもなお、理想に殉じようとして破滅すら望む彼の姿勢はインテグリティーの暴走と言わざるをえない。カスリスは「インテグリティーのモデルの暴走が無秩序状態、社会の解体、アノミーにつながるとすると、インティマシーのモデルの暴走はファシズムにつながるのである」と述べている(『インティマシーあるいはインテグリティー』、225頁)。インテグリティーは多様性に寛容だが、そこに固執すれば、理想に忠実であるがゆえの決断不能に陥りかねない。結局、連邦軍の総司令部は使い物にならず、連邦はレギオンとの戦闘に関してインティミットな知識を有するエイティシックスの現場判断、すなわちインティマシーに頼らざるをえないのだった。
インテグリティーの敗北と次善の策
前節で述べたように、本作において「高潔」すなわちインテグリティーを体現するレーナとエルンストの行動規範は上滑りしている。「高潔」という理念を国旗に込めた共和国もレギオンの猛攻に耐えられず、物語の中盤で瓦解してしまう。これはインテグリティーの理想の敗北であると同時に、白系種を優遇し有色種を排斥する堕落したインティマシーの敗北でもある。言い換えれば、本作は堕落したインティマシーをよりよきインティマシーで討つ物語として読み解くことができる。シンがパーソナルネーム「アンダーテイカー」として、戦場で先に逝った仲間たちの記憶を背負い続けるのは、仲間たちとのインティミットな関係を喪失するのが怖くて仕方ないからである。エイティシックスは程度の差こそあれ、戦場に固執する自罰的なインティマシーに沈んでいる。しかし、エイティシックスが浸かったインティマシーは悲愴ながらも決して醜悪ではない。
堕落したインティマシーをよりよきインティマシーで討つ構図は最終回(第23話)にも顕著に見られる。シンがモルフォの撃破に成功した後、奇跡的に戦渦を生き延びていたレーナは客員士官として連邦に招かれ、とうとう壁を隔てずにかつての部下たちと(初対面なのに!)「再会」するにいたる。生身で横並びになり、同じ目線で同じ方向を見つめる彼らは、ハンドラーとプロセッサーの壁を越えて、ようやくインティミットな関係に入ることができたと言える。思い起こせば第4話において、レーナは自分が管制室から「高みの見物」をしていたことを認め、「卑怯なままでいたくない」とレイドデバイス越しにシンに語っていた。彼女がエイティシックスとともに一丸となって戦えるようになるには最終回まで待たなければならなかったが、これはあくまで共属(belonging-with)によるインティマシーの成立であって、かねてからの理想であったインテグリティーが実現されたわけではない。換言すれば、エイティシックスが人間の尊厳を手に入れたというよりは、レーナがエイティシックスの側に迎え入れてもらったと見るほうが実態に即している。
要するに本作の落とし所は、菅義偉前首相が自らの政策理念として掲げていた「自助・共助・公助」に寄せて表現するなら、公助がまったく期待できない状況下では自助よりは共助のほうがまだマシ(たとえば「こども食堂」もないよりはあったほうがマシ)という消極的なものだ。本邦が絶望的な「無助社会」(宮本太郎)に近づいてしまった以上、フィクションが打ち出す希望が次善の策に甘んじてしまうのもやむをえないことなのかもしれない。しかし、インテグリティーの実現など夢物語にしか思えない苦境にあればこそ、せめてフィクションのなかだけでもインテグリティーを表現することに挑んでほしいと高望みをしてしまう私がいる。
カスリスは我々自身を文化的に両指向的(bi-orientational)にすることが「最善の選択肢」だと言う(『インティマシーあるいはインテグリティー』、240頁)。しかし、「言うは易く行うは難し」である。表見的(apparent)な立憲体制のもとで近代化を遂げ、いまなお表見性を色濃く残す本邦においては、自由・平等・博愛・正義・高潔といった観念は「甘ったるい夢」にすぎないと鼻で笑われがちだ。賢しらな自称「リアリズム」が実際にはコンフォーミズム(conformism)と同義であることも珍しくない。本作はインテグリティーを敗退させることによってコンフォーミストを慰撫しつつ、よりよきインティマシーを打ち出すことによって良識派(あまり深いことを考えない人たち)も感動の渦に巻き込むという絶妙なバランスのうえに成り立っている。その意味で、本作はきわめて戦後民主主義的なフィクションであり、日本近代の宿痾を背負ったアニメであったと言えるだろう。
おわりに
本作はイマドキのハイクオリティなアニメでありながら落ち着いた佇まいをしており、この点が大きな魅力であることは否定し難い。アニメ監督の富野由悠季は『ネオ・サピエンス誕生』(インターナショナル新書、2022年)に掲載されたインタビュー記事のなかで、現代における戦争の変容について次のように発言している。
本作は、富野の言う「無人兵器を効率よく人を殺せるようにプログラミングする者同士の戦い」に見せかけた「有人兵器の戦い」を描いている。しかし、敵であるレギオンは(人間の脳を取り込んだ個体がいるとはいえ)無人兵器のため、パイロット同士の譲れない思いが戦場で衝突するという人間ドラマは本作では見られない。第1期ではスピアヘッド戦隊の構成員が一人また一人と戦場に散っていく様子が描かれるが、さほど緊張感はなく、悲痛な印象も受けない。というのも、視聴者は大要塞壁群と画面によって二重にエイティシックスから隔てられているため、エイティシックスに感情移入するのはなかなか難しく、どこか傍観者的な立ち位置にとどまらざるをえないからだ。これに対して、第2期ではハンドラーとプロセッサーという非対称な関係が消え失せ、エイティシックスの5人が自分の意思でレギオン討伐に向かうため、戦闘の迫真が前景化して、精細なメカニック描写と相まって視聴者は息を呑むことになる。ただ、それでも金属質でドライな雰囲気は一貫して維持されており、富野の指摘する戦争の「変容」を現代的な感性で作品に写し取っている点は評価に値する。
最後に、本作の出演者についても簡単に触れておく。まず、何をおいても、レーナ役を真っ直ぐに演じきった長谷川育美には、お疲れ様の一言を伝えねばなるまい。強情で融通がきかず、理想に向かって邁進する青年将校という役柄には青臭さが必要だ。長谷川育美は『弱キャラ友崎くん』(2021年1月期)の七海みなみ役に続き、報われない努力をひたすらに反復する、「コスパ」の悪い人生を送る役柄に挑むことになった。直近の『現実主義勇者の王国再建記』(2021年7月期・2022年1月期)のアイーシャ役も相まって、石頭声優のイメージが定着することになるのか予断を許さない状況だが、愚直さを表現するうえでキャリアの浅さが助けになることもあるのだと気付かされた。スピアヘッド戦隊生き残りの5人には、シン役に千葉翔也、ライデン役に山下誠一郎、セオ役に藤原夏海、アンジュ役に早見沙織、クレナ役に鈴代紗弓が配されている。そして第1期のボスキャラ・ショーレイ役には古川慎、第2期のボスキャラ・キリヤ役には上村祐翔が配されている。本作はこのように若手から中堅まで実力派を揃えた布陣を構えつつも、全体的にトーンを抑えた地味な演技で構成されている点も魅力の一つである。感情の爆発や絶叫といった飛び道具はほとんどなく、その分フレデリカ役を演じる久野美咲が存分に剰余を引き受けているのも好ましい。強いて助演賞を選ぶなら、中性的な妖しさを放ち、白系種に対する期待を捨てきれない揺れる少年・セオ役を演じた藤原夏海ということになろうか。音声面では嫌いになりようがない作品であると総括しておきたい。
参考文献
トマス・カスリス(衣笠正晃訳)『インティマシーあるいはインテグリティー:哲学と文化的差異』法政大学出版局、2016年。
富野由悠季(構成・文=柳瀬徹)「人類は『ニュータイプ』になれるのか」『ネオ・サピエンス誕生』インターナショナル新書、2022年、154-173頁。