随筆(2023/10/21):スパルタ式で育たない花が、盗人猛々しく咲いているように見えてきたら、もうおしまいなんだよな
1.『黄金の精神を持つ無能』問題
適者生存、弱肉強食、スパルタ式教育的な発想だと、
「道徳的なことを思う良い子が、能力はないとすると、そいつはゴミである」
と考える人はかなりいます。
私はこれを『黄金の精神を持つ無能』問題と呼んでいます。
その黄金の精神はどうやって得られたのか。
自分で得たものではない。自分でできてないんだから。
ぶっちゃけそれは、儚く力ないやつらが、頑健で力あるものに保護された時しか成り立つことのできない、いわば不正に咲く徒花に過ぎないのではないか。
2.保護によって咲く花を許さない人が、花を保護できるようには到底思いがたいし、現にやりたくないでしょう
しかし。
それは、
「保護によって咲く花の存在に価値を認めない故に、これを踏みにじることに特段躊躇がない」
ということにあっという間に堕していく発想です。
何なら、
「保護というプロセスが、弱者によるリソース泥棒を、いんちきな教義で正当化しているように見える」
し、
「保護するやつらも、されるやつらも、リソースを無駄遣いする贅沢な社会制度に毒されて甘えた存在である」
ので、
「そんな社会制度に頼るな。無駄遣いをやめろ」
くらいに思っていませんか。
あるいは、そういう発想を、
「過激とはいえ理解はできる」
のではありませんか。
これは、
「資源を当面自活で賄える」
「社会の資源を当面損なわない」
という観点では正当化されますが、
「長期的に社会のメンバーを維持する」
という意味では、最悪なことを言っています。
だってこれでは子育てなんか無理だもの。
「儚く咲く美しい花は、根のある雑草に比べたら、存在すべき正当性のない卑劣な存在である」
というマッチョの思想では、子供など育てられる訳がない。
むしろ、
「お前はまともに育った盆栽ではない。なかったものとする」
ということで、ネグレクトや子殺しが横行する下地となりうる、というか人によってはこれがネグレクトや子殺しの動機にすらなりうる発想です。
強くない子の存在を保証しないし断ちたい強者。
そんなの、己を末代にして絶えるだけなのですが、それで良いのでしょうか?
私は御免ですが…
3.学習ではなく教育ということを考えれば、『出来てはいないが分かってる人』は増えて当然で、キレる方がおかしい
さて、
「実際にはできていないのに理念だけがあるのはおかしい」
という価値観ですが、そもそもこれ自体がかなり狭い価値観に見えます。
自分で学習することしかできない状況下なら、確かにそれはこうなります。
ですが、それだと困るから、社会は各種教育制度を用意したのだし、それは知識層形成や、もっと後になると国民国家形成の際に、激烈な効果をもたらしたのでした。
知識層は役に立つ知識やそれの基礎となりうる学問を練り上げ、そうした知見を持つ官僚を政府に送り出し、社会問題をマシにしようとして、しばしば政策的成果を上げていました。
国民国家はそうでない国よりもはるかに結束力に勝り、ナポレオンの頃のフランスはそのせいでヨーロッパ全土を脅かすほどべらぼうに強かったので、ヨーロッパ各国はその後紆余曲折を経てほぼ全て国民国家に舵を切ったのでした。
その激烈な効果のある教育制度を、今更
「贅沢な社会制度であり、社会のリソースを損なうものだ」
と言ったら、まあお話にならないでしょう。
それじゃナポレオンに勝てねーんだよ。
第一帝政フランスvs.スパルタ?
秒殺では???
教育制度が発達していると、「贅沢な社会制度による金ドブだ」と怒るの、流石にダメでしょう。
聞いてますかジェームズ=ワトソン。「黒人に教育を施すと金ドブ」発言、実にいいご身分でいらっしゃる。
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今の日本の学校では、一応道徳教育や公民教育を行う訳です。
つまり、
「いろいろな道徳についておぼろげながら知識としては知っている」
という状況は、ふつうに可能です。
というか、実際そうなっているでしょう。
道徳そのものは、実践規範のある種の一部なのです。
実践して初めて意味がある、というのはある程度その通りです。
やれとらんやつはダメ、というのも、ある程度はそうでしょう。
しかし、あらかじめ実践規範としての道徳を知っておくことは、道徳の実践を極めて容易くする。
そして、出来ない人を、いつか出来るようにする。
それで、いいじゃありませんか。
そして、そういう教育制度に、敬意を払うべきなのです。
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分かるが、出来ない皆さん。
いつか、できるようになりましょう。
それまで、何を言われても、
「は? いつかやることは既定路線であるが? その上で、なおも、ガタガタ言うなよな」
くらいのテンションでいましょう。
それでは、グッド・ラック。
(以上です)