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随筆(2023/2/16):戦いたくないのに戦わせるやつらは忌まわしいが、戦う者の歌を戦わない己が嗤うような真似もしたくないんだよな

1.ひもじい、寒い、もお逃げたい

説明を避けますが、この三日間、緊急性の高い仕事を、しかも3つも並列処理でやっていました。
未だに終わって生還したのが信じられません。

こういう時に限って、石川県は雪が降っており、へばりつくように寒く、職場で高い重油と灯油を焚きながら暖房やストーブを入れねばならなかったりしました。
また、脳を超高速回転させており、ブドウ糖が超高速で枯渇していくので、夕方に発狂しないためにも昼のおにぎりを1/4残して15時頃に食べねばならなかったり、要らざる工夫をせねばならなかったりしました。

とにもかくにも、終わった。
メンタルがだいぶ弱っている。
悲しくて悲しくて、とてもやりきれない。そんなザ・フォーク・クルセダーズの歌がずっと頭に流れているのでした。

ひもじい、寒い、もお逃げたい。

2.現実に磨り潰されようとしている時に、重たいクソ現実を投げつけて来るな。そういう時のために(も)フィクションのコンテンツがあるんだよ

クソ現実に磨り潰される時の気晴らしに、重くない他愛ない、しかし素晴らしいものと触れ合いたい訳です。
それがあればやる気を取り戻すための呼吸ができるし、なければただ磨り潰されるだけです。

また、人に話をする時は、素晴らしい物事の話をやりとりしたいのです。
クソ現実の最中に素晴らしい物事の話をする以上、それはしばしば
「その話が今ここ己に一ミリも関係あるのか? テレビ見てんのか?」
という無関係な色彩を帯びます。
クソ現実にシバかれた時の人に
「現実は素晴らしい」
という話をする人、
「相手がその素晴らしいクソ現実様からクソを投げつけられている。聖なるクソ(ホーリーシット)」
という状況を全く見ようともしていないし、
「たった今クソに直面している人に素晴らしさを説いても、相手にとって無関係にしか見えないし、嫌悪で迎えられるのはごく当たり前である」
ということは分かっているのでしょうか。
分かってやっているのなら、悪気があろうがなかろうが、それは現実に嫌がらせとしてしか機能していません。泣いても笑っても現実そうです。
自分がクソ現実を投げてどうする。他人に素晴らしい話を共有する気がないだろう。他愛ない素晴らしいものを投げろ。ということが言いたいのですよね。

そういう時は、せめて、クソ現実からできるだけ遠いことが明らかな、重くなくて他愛なくて他人事のような、そして気晴らしのためには意表を突いて笑える話をしたいのですよね。
フィクションのギャグめいたコンテンツでエンターテインメントをやるということは、そういう意味合いも持ちます。

3.クソ現実と戦うにはクソ現実を捻りきって自分の血肉とも武器ともしなければならない。クソ喰らえだ

で、気晴らしの時はそれでいいのですが、現実を退けるには、やはりクソ現実を捻り切って自分の血肉、自分の武器にすることは、いつかは必要になってきます。
要するに、努力と勉強と訓練をしなければならないし、現実「を」物理で改変するために実践をしなければならないし、それは物理的な結果や、現実改変と言えるだけの成果につながらねばならないのです。
やりたくないが、長期的に生き残って旨い飯を食うためには、やむをえない程度の「やりたくなさ」だと割り切るところです。
もちろんそんなの「クソ喰らえ」としか言いたくないのですが、後で説明する「義務ではないが必要であること」として、そこはどうあっても残ります。

4.嫌なものは嫌だし、発破をかけて覆そうとするバクチ人間に、したり顔で発破をかけられるのは、もう超絶嫌なんだよなあ

もちろん、気晴らしができていないときにこれを「せねばならない」ものとして強いられるのは、嫌なことです。
周囲は「だって現実にそうなるんだからやるしかないじゃないですか。嫌なら黙って死ぬしかない。それだけの話であって、私は命令などしていない」と言うかもしれません。
が、これは不利益を盾に何らかの行為を推奨している訳で、世間的には「結果的に言われた相手がこれをやるといった事態が出力される」ための方法論の一つです。
義務もそういう「言われた相手がこれをやるという事態が出力される」ための方法論であり、当事者には「要はこれをやらねばならないということを余儀なくされている」訳で、区別がつく訳がありません。

というか、トーンの高低でしかありません。
言ってる側は
「トーンの高低、話者の意図の差異こそが大事」
と言うかも知れません。
が、させられている側は
「これをやらねばならないということを余儀なくされているという同一性こそ大事」
という解釈しか取りたくないんですよね。

「やりたくないことを、やらなきゃならない」
と自ら納得してやっている訳ではない。
やりたくないまま、やらなきゃならない、と話者に余儀なくされてやっている。
差異を言うのなら、やる側の「納得」と「余儀なき選択」の差異こそが決定的なのです。されてみればあの猛然とした不快感が直接分かるでしょう。
それに比べれば、やる側にとって、話者のトーンの高低など、小さくはないが二の次のことです。

だから、その辺を心得ている、言う側は、相手の納得のいく形で、やる気を出すために、上手く乗せるよう気を配ります。
そして、重要な話ですが、発破をかけることに極めて慎重になります。
累積した中間成果物や貯金や意欲や信頼を火に焚べて、よりでかい中間成果物や貯金や意欲や信頼を得ようとするの、世間的には博打の類いです。
失敗したら相手のやる気が全部爆破される危険な博打を、常套手段に組み込むこと自体、かなり危機的なギャンブラー仕草であると言えます。
通常、ギャンブルで蔵は立たない。ならばそれは外さないと、安定した基本戦術は組めない。ということです。

5.でも、義務ではないが必要であることをやらないと、現実にはしばしばその後断末魔を上げて死ぬしかなくなる

で、現実は、説教臭いバクチ人間より、はるかに容赦がありません。
義務ではないが必要であることは、世に多々あります。
「クソ現実と戦うにはクソ現実を捻りきって自分の血肉とも武器ともしなければならない」
というのもその類いです。

これをやらないとどうなるか?
かなり高い確率で、クソ現実がこちらを容赦なく除雪車で排除してくる。
排除される側は苦しく、酷たらしく死ぬことになる。
泣いても喚いても変わらない。断末魔を上げて根こそぎ奪われて凍えて死ぬしかなくなる。

そんなの、直視したくねえ〜。来るんじゃねえ〜。マジで勘弁しろや。
だがそういった悲鳴すらクソ現実は斟酌しない。ふつうに現実に死ぬでしょう。

そこは諦めがある。
じゃあ俺がクソ現実から捻じりきったクソ現実武器でクソ現実をその場しのぎで退けて凌ぎ切るしかないんだよな。ここは修羅場だ。これより、犬神工房、修羅に入る。平たく言えば、ぶっ○す。
と、私はなってしまい、今に至る訳です。

6.戦えないのに戦わせるやつらは忌まわしいが、戦う者の歌を戦わない己が嗤うような真似もしたくないんだよな

もちろん、戦えないのに戦わせるやつらは忌まわしいのです。
それに、戦う人が戦えない人に「戦え。俺だけ戦わせているんじゃあない」というのも無作法なのです。

たいてい、人は各々、己の戦いを戦っているし、他人の戦いを戦うことはあまりないし、他人の戦いについて己は詳しくありません。
もちろん己の戦いについて他人が詳しい道理もない。
ならば、「こいつは戦っている」「戦っていない」という講評自体が、かなり高い確率で的外れの筋違いにしかなり得ない。

そして、ある程度本格的に戦えない人に、戦う軍人が、食料も宿舎も武器も弾薬も薬品も供与しないで戦わせるの、本当にいけません。
モスクワ路上生活者拉致徴兵主義を軽蔑しながら、自分がそれをやるな。ということです。
後者をやる段に当たって、何らかの理屈と膏薬があるのでしょうが、前者に対して何の効き目もないし、何のスジも通らねえよ。としか申し上げられません。

***

また、逆の話もあります。
己の戦いを戦うリソースが枯渇して戦えないことは、残念ながら佃煮にするほどよくある世界残酷物語です。
また、筋違いの戦いを余儀なくされることは、当然真っ平御免です。

だからって、戦っているものの、参戦を口にしないし明確な要求もしない人に対して、
「自分にも戦えということを暗に示している」
と邪推しない方が良い、ということです。

また、己の戦いの必要性と強制性を混同するのもいけません。
ふつう、己の戦いを戦わねばならないのは、戦わねばキツイ死に方をするからで、他人の余儀なくする働きかけは、ここにおいては介在しておりません。

ここは決定的に重要なポイントです。
どこが?
周囲に当たり散らす正当性があるかないか、というところがです。
他人の余儀なくする圧力が介在していたら、それは抗うことに正当性があるかもしれません。
介在してないなら、正当性はありません。そういうことです。

「周囲で戦っているやつは、自分に戦わせようとしているに違いない。
戦えるか否か、戦う謂れがあるか否か。この回答は今ここ己においては「否」以外に有り得ない。
だから彼らの仕草は悪意ある愚劣なものでしか有り得ない。
愚劣なことを義務として強いる輩は愚物ゆえ、いかなる反攻も許容される」

残念ながら、1行目から4行目まで全てが「果たしてそうか…?」という話でしかありません。
自分では「そうに違いない」としか思えないでしょうが、よくよく考えたら、4回YESであった時しかYESにならない、実はかなり細い条件の話です。
1/16の確率という、かなり薄弱な根拠で、侮辱的な態度で攻撃をしようとしている訳です。
まあ、ふつうに反撃されるでしょうね。15/16の確率で「別に正当性もない奇襲が向こうから来た」としかならないし、反撃の正当性で言えば、周囲の側に15倍の確率で正当性がある。
クソ現実だけではなく、周囲と戦わねばならなくなります。無駄な両面作戦を、しかもリソースも正当性もなくやるのですから、これはもう途方もなくボロ負けして、再起不能になって凍死することでしょう。
嫌なんだよな。そんなの。

***

クソ現実と戦えないのに、強いて戦わせるやつらは忌まわしい。
だから、クソ現実と戦う者が、戰わないものを戦いに赴かせることは、正当どころか忌まわしいことであると考えるべきである。

逆に、クソ現実と戰えない者は、たとえ戦う者が己を戦いに赴かせようとしているようにしか見えなくても、戦えないなら戦わないことを貫徹「せねばならない」。
戦わずに抵抗することは、流されて戦うことより、ふつうまだしもキツくはない。というのは、よく言われることです。
その最小限の戦いは、もし生じたあかつきには、己の平安や回復のために「こそ」、どうしたってやらねばならない。

しかもこれは「NO」と言い続ければ常に自由意志と拒否権の強さゆえに勝てる、実は既に本質的に勝っている、その勝ちを手放さなければ必勝、というボロい勝ち戦だ。
拒否権とはそこまで強く、相手はこれを覆す程の、法的に保証された強制能力をふつう行使できる立場にない。
日本は今のところギリギリ平時なので、何かあれば110番すれば99%好転する。

そして。

断固戦わないことにした以上、せめて、戦う者を侮辱しない。
そんなことをしたら、クソ現実だけでなく、戦ってて戦闘モードに入っている、しかも己に侮辱された者たちと、戦うことになってしまう。
クソ現実と戦わないようにするだけでもヘバっているのに、両面作戦なんか出来る訳がない。
やめましょう。

戦えないのに戦わせるやつらは忌まわしいが、戦う者の歌を戦わない己が嗤うような真似もしたくないんだよな。
そんなことを、高田漣や中島みゆきを聴くと、思うのです。

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