随筆(2022/4/1):大事な人を大事にすることの有難味(ありがたみ)と、その先にある泥濘(ぬかるみ)と、そのさらに先にある旨味(うまみ)
1.大事な人を大事にすることの有難味(ありがたみ)
1.1.誰しも一人である
誰しも一人である。
一人の脳は一人の「肉体」の中にあり、他の肉体や他の脳とつながってはいない。
一人の感覚は、生まれてしばらくは、自他も内外も未分化である(間主観性)。
が、そのうち「少なくとも自分が運動して連動する「身体」とそうでない「外界」がある」ということはわかる(運動主体感)。
そうして「この身体が「自分」だ」というざっくりとした感覚が生じる(身体保持感)。
結果的には、「自分」というものの、ある種の基盤が出来る。
1.2.自分ではなく、だから自分にとって都合が悪いことのある、外界と他人
そして、これとほぼ同時に、外界は自分の運動に直接連動しないことがわかってくる。
そして、外界の中でも「他人」は、自分の都合とは別の都合を持つこともわかってくる。
他人は、基本的に、自分にとって都合が悪い。
自分にとって起きてほしいことをせず、起きてほしくないことをやる。
それも、他人の都合で。
こんなの当たり前だ。それが自分と他人の違いなのだから。ここを飲み込むことから全ては始まる。
1.3.都合の悪い外界と他人から自分を守る、サツバツとしたライフスタイル
とはいえ、その都合の悪さの中には、他人が自分の生活を破壊し、他人にも転用可能なリソースを奪っていくことももちろん含まれる。
これはあまりにも都合が悪すぎて容認しがたいところだし、自力救済(司法や警察が機能しない中で、攻撃してリソースを相手の支配下から奪い返すこと)になる。
ある種サツバツとした生活は避けられなくなる。
1.4.奪い奪われない相手、もうそれだけでものすごく有難味(ありがたみ)がある、大事な存在だ
それでも、奪い奪われる相手と、そうでない相手がいる。
奪い奪われない相手、安全安心だし、呼吸がしやすい。風通しがいい。
そういう人たちに囲まれれば、これは大いに安全安心になるわけだ。
これは本当に大切なことだ。
1.5.大事な人たちの楽園
「自分の生活やリソースを略奪されるのが嫌なら、紳士協定で、他人に配慮しよう」
という気持ちを集めると、
「配慮しやすい他人の集まり」
つまりは
「自集団」
になる。
これは奪わず奪われないというとてつもない有難味(ありがたみ)があるし、人によっては心から大事な場だ。
場合によっては、そしてしばしば、これは「失いたくない、守りたい」ほどに大事になってくる。
2.大事な人を大事にすることの先にある泥濘(ぬかるみ)
2.1.楽園を楽園のまま保つために、楽園への参入障壁を設けたくなってくる
敵対的な取引先の中で、より安全安心な相手を選び、仲間内を囲っていく。
これは処世のために極めて(というかふつう決定的に)重要な過程だが、こうして出来た仲間は乱入と裏切りに極めて弱い。
そりゃそうですよね。大事にしない人に入ってきてほしくないじゃないですか。
そして、自分たちを大事にしない人に、敵意を持って暴れられて、リソースを持っていかれたら、ものすごいダメージですよ。
そんなリスクのある場を、楽園とは言うまい。
だから参入障壁も同調圧力も高くなる。
排他的な仲間はこうして出来る。
ひどく直感に反するが、間違いなく、配慮の正しさの果てに、「帰結として」、こうなる。
だから俺はもうこれを安易に非難できなくなってきている。
2.2.大事でない人たちの荒野
また、「配慮しにくい他人」や「他集団」との「調整」は、常に要請されてくる。
これはふつう、想像をはるかに超えて難しい。
各々の主体は「個人」や、「個人と、配慮しやすい他人の集まり、自集団」である。(「他集団」ではない)
そして、いったん他人を配慮すると、彼らが大事になる。だから「自集団」への結束はふつう高い。大事だからだ。
他集団は自集団に比べたら「配慮しやすくない」相手であり、大事でもない。
「他集団のために自集団は耐えてもらう」という話は、調整の上で避けられない。
が、配慮のメカニズムがあり、大事な人(たち)が大事である人たちにとっては、胃酸で胃が溶ける要請だ。
配慮の正しさの果てに、こうなる。
2.3.「大事な人(たち)」以外の扱いが疎略でないようにせねばならないが、これは予想を越えてはるかに難しい
「大事な人(たち)」以外の扱いが疎略でないようにすれば、最低限の人間扱いは大事な人たち以外にも平等に保障するなら、平たく言えばある種の人権擁護をすれば、揉め事はかなり減る。
とはいえ、同じ綺麗な価値であっても、配慮と平等は別々の話だからで、両方備えている人はあまりいない。
配慮できても平等でない、大事な人(たち)が大事である人は、配慮できて高度な平等を持つ人より、ふつう多い。
後者の方がもちろん綺麗だが、自集団レベルでそれを徹底するには、相当手間がかかる。
配慮と平等を同程度に重んじて調整をとる方が綺麗だが、
「あなたがたは多いが、綺麗さにおいては相対的に醜いからダメで邪魔」
という話を、平等より配慮の方が重い人に言っても、それは平等より配慮の方が重い人にしてみたら
「お前らの配慮、醜くねえか? 我々に書き換えられるか、いなくなれ」
という意味合いの、要するに同化か追放の要請に帰結するんだよな。そりゃあ揉めますよ。当たり前だよ。
同化や追放を迫っていることは綺麗事でもなんでもないが、やっていることは正しくこれだ。覚悟を決めねばならない。
配慮の正しさの果てに、こうなる。
2.4.本当に「大事な人たち」がいるなら、集団間闘争は避けられない。が、これは泥濘(ぬかるみ)なんだ
そんな訳で、他集団に配慮すると、自分や自集団が耐えねばならんことは、どうしたって出てくる。
ふつうは納得いかない。憎たらしい。耐えられない。
「集団間闘争」のリスクはふつうに織り込み済みにせねばならなくなる。
「自分と自集団の幸福を損なう他集団から幸福を奪回する」選択肢も当然出てくる。
配慮の正しさの果てに、こうなる。
2.5.こうして戦士たちが生まれる
そのうち「集団間闘争の熟練者」、戦士なり兵士なり軍人なりも出てくる。
彼らは「自分と、自分の大事な人たち、自集団の幸福を損なう他集団から、幸福を奪回すること」を当然視する。
そのうち、彼らの目的意識と実力の強さが、そのまま「自集団が他集団から略奪されない安全性」に影響してくる。
2.6.なぜ戦士たちは偉そうなのか。自集団がキツイ仕事をしている戦士たちに十分な報酬を払わないから、戦士たちは払わせようとするのだ
「集団間闘争の熟練者」は、当然ながら命懸けだ。
きついきたないかっこわるいではやってられない立場だ。
やるからには優先して願望をかなえてほしい。でかい評価か報酬がほしい。
なんでやらねーやつらにデカイツラされて死地に送り込まれねばならんのだ?
「集団間闘争の熟練者」は高いリスクの中に身を置く立場であり、高いリターンを求める。
そして、自分よりリターンをもらっている低リスクの人たちに、一線を引く。
軽蔑しているが、守るべきであり、せめて十分なリターンを寄越すべき立場の者たちと見なすようになる。
自集団が高いリターンを払えない?
人の命懸けをぬけぬけと踏み倒すな。
他集団から吐き出させるのも一つの手ではある。
が、そもそも、自集団が払ってくれないなら、そんなやつら、守りたくねーぞ。
守ってほしくば、敬意か報酬か両方を払え。
偉そうな軍人の出来上がりだ。
配慮の正しさの果てに、こうなる。
2.7.戦争に飽き、「統治」か「同盟」をやることで、戦争は終わり、平和になる
資源が枯渇し、場が荒れ、戦争にうんざりすることもある。
戦争をやめ、調整の方に重点を置かねばならないこともある。
さっきも書いたが、ふつうは調整の結果、他集団のために自集団が耐えることは、とても難しい。
そこを何とか、他集団との調整を実際に耐えてもらうための、他集団併呑帝国的「統治」(とはいえ併呑は、今の国際情勢だと、もう採るべきではないんだよな。血が流れすぎるし、リソースは損なわれすぎるのだから)ないし複数集団間「同盟」なのだが、当然ながらどちらも信じられないほど難しい。
偉そうな軍人を「警察」にしたり、できるだけ自分に都合の悪い同盟を余儀なくされないために戦力を背景にしたりすることになる。
ここで初めて、帝国や同盟の中の人たちが、一応の偃武、平和の上に立つ。(今の日本もそうだ)
面倒で危険な流れだが、配慮の正しさの果てに、遂にはこうなる。
これは、どこかに綻びがあると壊れる、薄氷の平和だ。
それに、この流れから外れた事例も多々ある。
(他国間とは言え、見たくなかった)
3.平和のさらに先にある旨味(うまみ)
3.1.平和以降の豊饒な幸福と、その道具としての豊饒な文化(とはいえ幸福も文化も平和以前からあるもので、あくまで「平和だとそれらが豊饒になる」ということだ)
偃武修文で、「戦争」のコストは減り、「統治」や「同盟」にコストを割く余地が出てくる。
「統治」や「同盟」はどんどん洗練され、それらは「平和」の道具となり、「平和」を強化する。
「平和」は「幸福」の道具となり、「幸福」を強化する。
「平和な幸福」の道具として、「平和な文化」も花開く。
それに、民を軽蔑し、守り、敬意と報酬を払わせる、偉そうな軍人たちは、一見「幸福」からかけ離れたところにいるが、決して「幸福」に盲目とは限らない。
千利休の茶の湯を見ても、軍人が打ち解けて話すことのニーズは常にあったのだし、ここで大事な話がいっぱい決まったのだ。
3.2.豊饒な文化は万能ではありえないし、特効薬として当てに出来るとも限らない。あたかもそうであるかの如く振る舞うイキり、有害
軍人が幸福を理解できない「とは限らず」、理解できていたりすることがありうる。
このことは、「豊饒な文化」を愛好する文化系からはふつう全く見えておらず、「あいつらは一律幸福の分からないバカ」と誤解されている。
だが、これは現実を広く取ると、実態に反するし、現実への対処を過つ危険な誤解だ。
当然ここは決定的に大事な話だ。
綺麗な「生活の安全安心」や「配慮」で、
「自集団」「他集団との調整への抵抗」「幸福を奪う他集団からの幸福の奪回」「偉そうな軍人」の諸問題(に見えるもの)を、
当事者の無理解ゆえに理解させれば「簡単に」解決できそうに思ってしまうと、
平和に至る綺麗でなく面倒で危険な流れの再発明になってしまう。
なぜか。
平和に至る、綺麗でない、面倒で危険な流れは、正に綺麗な生活の安全安心と配慮から出ているからだ。
そして、要所要所で生活の安全安心と配慮によって強化されるものだからだ。
平和への道は、綺麗事から出た、綺麗でない面倒で危険な流れなんですよ。
閾値を超えたら、これを一からはやりたくないんだよな。
上の流れを満たし、促進する、生活の安全安心や配慮なら、これは平和にとって意味がある。
一から全部やるのでなく、欠けたところを埋めて、そこから再出発することになる。一からやると面倒で危険すぎるからだ。
途中からであっても、これは「簡単」ではない。覚悟を決めてやるしかない。
それでも、やるならやればいい。それが突破口かもしれない。
やれそうにないなら、上の流れに寄与することをやった方がいい。
そして、上の流れに則るなら、上の流れにおける問題点とかに手当するのが最善であるし、あるいはそこから下流の筋道をうまくつけることにも意味がある。
単なる生活の安全安心や配慮だけで動くの、最上流の一番面倒で危険なポイントだ。
効果より副作用、実害の方が大きい。
だったら、そういうの、やめた方がよくないですか。
綺麗な生活の安全安心や配慮から出た、綺麗な平和に至る流れは、決して綺麗ではない、面倒で危険な、しかも現実の流れだ。
やるなら効果的にやった方が良い。
当事者たちが平和を望んでいるのだとしたら、平和に寄与する流れの中腹と下流を泥まみれで修復することに、一番意味がある。
綺麗な生活の安全安心や配慮の最上流、ではない。
綺麗な生活の安全安心や配慮の最上流パワーで全てを綺麗な平和の下流に押し流したいのかもしれないが、もしそうだったら、やめた方がいいですよ。
そうはならないし、それは副作用の大きい大氾濫になるから。
平和どころかぺんぺん草も生えなくなるから。
生活の安全安心も配慮もとても大事ですよ。それは何一つ変わらない。
だが、それを全能のものとしてやると、地獄を生む。
地獄を最小限にしたいなら、「大域を見る」「局所を狙う」「やる」ことはやらねばならない。
そこをやらないで、原理原則だけで、全能をやってはならない。
そんな全能の神ムーブ、世界を破壊するだけだ。
綺麗な最上流パワー、やめてほしいのだ。
(以上です)