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【映画】なぜ評価が高い?『ホールドオーバーズ』による他人と傷を癒やし合う方法

遅ればせながら、映画『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』(原題: The Holdovers)(2023)を劇場で見てきました。とっても私好みの青春映画でした。

内容に言及しているので、念のためネタバレ注意です。


なぜ評価が高い?

第96回アカデミー賞では作品賞を含む5部門で候補に挙がり、米国ではヒットした本作ですが、日本ではそこまで話題になっているようには見えません。

とはいえ、Xでフォローしている映画関係のアカウントの何人かが絶賛していて、中には今年暫定ベスト3に入れてしまう人も。自分と映画の趣味が似ている人が評価していると、さすがに気になってしまいます。

さらに前評判をうかがうと、filmarksでの評価は4.2/5。この中に「退屈」のような批判が含まれていたとしても総合的には評価が高めといえます。

こうなってはもはや無視できません。ちなみに、あらすじを覗くと舞台は全寮制の男子高校だそうです。ここでとどめを刺されました。もはや見ざるを得ない。即刻、劇場へGOでした。

感想

端的に述べると心温まるプロットで、たびたびウィットのきいたジョークも挟まれて観客席からは笑いが何度も巻き起こりました。幅広い層が楽しめる映画でした。

ただ、人を選ぶ映画なのもわかります。先に言ってしまうと、本作にはいわゆるハリウッドのような派手さは皆無です。爆発もカーチェイスもガンアクションも背筋が凍るスリリングな展開もセクシーシーンもありません。ここからは自分がどこに惹かれたのかを綴っていくことにしましょう。

巧妙な舞台設定

まず、時代設定は1970年で、舞台は名門の全寮制男子校。冒頭から字幕で「シコる」「エロ本」などと男の子らしいワードが飛び交ったと思ったら、次のシーンでは学内の教会で厳粛に終業式。冬休みが始まり、学生たちはクリスマスに家族と過ごすために一斉に帰省し始めますが、主人公を含む問題児たち5人は成績やら素行不良やらの理由で学内で居残りをすることに。タイトル(holdovers)のひとつの意味はここからですね。

ここで1970年の時代設定が効いてきます。スマホやSNSどころか携帯電話もインターネットもない頃ですから、居残りをさせられる5人は全寮制男子校の学内に閉じ込められたも同然になるんです。つかみはバッチリでした。

居残りの絶望

家族との連絡手段も電話になるんですが、ここでメインとなる男の子の複雑な家庭事情が垣間見れます。クリスマスに親と過ごす楽しみが居残りによって阻まれたのに、自分の親はクリスマスに再婚相手との予定を優先すると告げてきて、やんわりと帰省を拒んできたのです。

居残りで「帰れない」だけではなく、親と一緒に過ごすために「帰りたい」という理由も失ってしまいました。その上で、自分を居残りにさせた張本人の嫌われ者の先生と一緒にクリスマス休暇を過ごさなければならない。

せっかくのクリスマス休暇のはずが、居残り授業と、毎朝強制的に起床させられてランニングをさせられる軍隊のように厳格な生活管理。楽しいクリスマス休暇からは程遠い地獄のような状況が重なり、主人公の男の子は絶望することになります。

主人公の頼もしさ

とはいえ、めげてばかりの主人公ではありません。問題児たち5人の生活は一筋縄ではいかず喧嘩もいさかいも起こりますが、とある深夜、主人公は隣のベッドで同じく居残り組のアジア系の男の子がすすり泣きをしているのに気づきます。

アジア系の彼もまた、自分と同じく親から帰省を拒まれていたのです。クリスマスに自分の帰りを待つ家族がいない悲しみを抱えているのは自分だけではないのだと知り、主人公は彼を励まします。

おまけに、アジア人の涙の理由は「おねしょ」をしてしまった情けなさでもありました。彼が先生から罰を受けないように、主人公は、朝になったらこっそりシーツを洗うから今は濡れていないところで寝るように言います。イケメン対応です。冒頭、親からの電話で周章狼狽していた主人公は、ここでは青年の頼もしさが描写されることになります。

無効化される当事者性

複雑な事情を抱えているのは問題児たちだけではありませんでした。嫌われ者の先生もまた事情を抱えています。物語の中盤以降は、メインの登場人物が3人に絞られます。他の問題児4人が学校を去った後に一人だけ居残りをさせられる主人公の男子生徒、学校で留守番することになったがクリスマスに過ごす家族はいない孤独な中年教師、そして料理長のおばさんです。

この3人はそれぞれ「傷」や「問題」を持ちつつ、少しずつ心を通わせていき、心温まるクリスマス休暇になるというのが物語の骨子です。

そして、本作はこの「心を通わせる」という点に最大の魅力を感じました。3人はそれぞれに「問題」を抱えていますが、男子生徒と中年教師と料理長はいずれも事情が異なり、問題に共通項がほとんどないのです。

つまり、主人公が深夜に泣いていたアジア人を励ました状況のようにはいきません。もはや誰も「私も同じだからわかるよ」と励ますことができない。3人は心の傷や複雑な事情を抱えていて、相手もそうであるのを知っている。けれども、誰も相手に対して、「当事者」としては共感することができず、安易に理解を示すこともできない作りになっているんです。

属性を超えた寄り添い方とは何か

料理長の女性は黒人ですが、中年教師と男子生徒は白人。また、男子生徒の通うこの名門高校はこの教師の出身校でもあります。一見すると、教師と生徒は共通点があるように思えます。しかし、前者は貧しいところから立身出世を図ったが挫折して孤独となり、後者は富裕な家で名門高校に通えているが家族との不和を抱えている。人種と経歴が共通していても悩みの種は全然違います。

つまり、「この人はこのような属性を持つからこういう悩みがあるだろう」という予測は、この物語では意味を持ちません。また、仮に同じ属性を持っていたとしても、心の傷や事情は極めて個人的なものですから、「当事者」という属性は無効化されてしまいます。物語の中盤以降の登場人物とプロットから読み取れるこの映画のメッセージは、当事者でなくても悩みを抱える相手に対してできることは何か、ということになるでしょう。

私たちは悩める相手に対する解決策として、しばしば「寄り添う」ことを提示してしまいがちです。しかし、具体的には何をすることなのでしょうか? 究極的には本人の問題でしかない事柄に対して、決して本人ではない他者は、寄り添った上でいかに振る舞えばいいのでしょうか? その意味において、この映画はひとつの答えを出していると思います。

人種やジェンダーや年齢層や学歴といった属性で一括りにされがちなこの時代ほど、属性には還元されない個人的な問題への対処が重要性を増してきます。この問題に、属性で団結するのが不可能で当事者にはなれない周囲の人たちは、悩みを抱えた本人に対してどのように振る舞えばいいのか。ダイバーシティにおける個人の問題を再検討する映画として、広く見られてほしいです。

おわりに

男子生徒役の俳優はドミニク・セッサさんといいます。初めて知りましたが、それもそのはずで本作がなんとデビュー作

私たちはすぐにイケメンとして片付けてしまいますが、セッサさんはイケメンというよりもハンサムです。たぶん私のようにドキッとした観客は相当数に上るのではないでしょうか。

そして、そのハンサムなセッサさんが同年代の女の子と「いい感じ」になるシーンがあるんです。クリスマス会での共同作業中に女の子の胸元が見えそうで、チラ見されたことに気づいた相手が「もっと見たい?」と迫ってくる。反則です。こっちまでドキドキしてしまいました。セクシーシーンはないんですが、いろいろと眼福でした。

とはいえ、ラブコメに発展する線を強制的に断ち切ることで、あくまで作品の主題は「互いに当事者にはなれないながらも寄り添う3人」であることが再確認されるわけです。ここはまたいつか鑑賞した際に考察したいところ。

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