作家・小川洋子氏が見た「ポッキー」の世界

11月11日は、『「1111」が4本のポッキーあるいはプリッツに見えることに由来』(出典:Wikipedia)して「ポッキー&プリッツの日」なんだそうである。

そのポッキーがどうやって造られているのか、兵庫県神戸市にある江崎グリコの工場に併設された「グリコピア神戸」で見学することができるらしく、「工場好き」を公言する作家の小川洋子さんはも訪れたことがあるそうだ。

いよいよグリコの工場に到着してタクシーを降りた時、思わず口をついて出たのは、「何てオープンなんだろう」という一言だった。(略)『チョコレート工場の秘密』に出てくる、世界中でたった五人しか招待されなかったワンカ氏の工場(略)とは大違いだった。ただ一つ、ワンカ氏が経営するチョコレート工場との共通点は、美しさである。


小川さんはグリコピア神戸の館長さんらに中を案内してもらうのだが、近代的な最新鋭の工場にあって、最終的には「職人技」や「人の手」が大事だということに驚く。

広報の方の説明によると、『ビスコのビスケット部分の生地は、その日の天候や湿度、ガスの具合によって、ビスコ・マイスターという職人が配合を調整しています』とのこと。

またポッキーなども『変な焼き方をすると、ポキッと折れずにひさしみたいになる』ため、焼き方も日々調整するのだという。

なるほど、ポッキーがポキッと折れなければ、それは大変な事態なのだ。


そういえば冒頭で何気なく「ポッキー&プリッツの日」と書いたが、実は(チョコレート等がコーティングされる前の)ポッキーの軸とプリッツは全くの別物なのだそうだ。

機械によって長~いポッキーの軸がどんどん作られていく。長~いポッキーの軸には、普段我々が食べる時の長さごとに筋目が付けられている。
最後にその筋目を「機械で」カットするのかと思いきや、『筋目の通りに、自重で折れます。自分の体重で…』。なんと!

オーブンから出てきた彼らを待ち受けているのは、小さな谷だ。コンベヤーが緩やかに斜めになっている。そこへ差し掛かった時、長い一本の棒であった彼らは、あらかじめつけられていた筋のところで、何の抵抗もなく、素直に折れてゆく。(略)
カッターの刃で強引にガシャンと切られるのではなく、これが自然の摂理なのだと得心して、定められた長さに自ら折れてゆく。(略)なぜか私には、彼ら、つまりポッキーの軸たちが自発的に谷に落下しているように思えてならない。
「皆さんが望んでおられるのは、つまりこういうことですね?ええ、よく承知しています。どうぞご安心ください」
そんなふうにつぶやく彼らの声が、ガラスの向こうから聞こえてきそうな錯覚に陥る。

そして、『同じ長さに揃った軸たちは、更にコンベヤーに載って運ばれてゆ』き、『検品しながらアルミの箱に入れる』作業になる。

ここでようやく、人間の働きが目に見える形で現れてくる。コンベヤーの最後、ここから先はもう何もない、という地点に女性が一人立ち、次から次から流れてくるポッキーの軸をL 字型の銀色の板でごっそりとすくい上げ、トントンと軽く底を叩いて向きを揃えると、現金輸送に使うジェラルミン製の箱のようなものの中へ、滑り込ませてゆく。そうしながら同時に、もう片方の手で、気になる軸を取り除く。
文字にすればわずか数行の話だが、かなりのスピードで待ったなしに流れてくる無数の、しかも折れやすい軸を相手に、これだけの作業をするのはかなり大変だと思われる。(略)細かい動きの一つ一つすべてに意味があり、それらが滑らかに連合して一続きの軌跡を描いている。(略)
すくい上げる、揃える、入れる。すくい上げる、揃える、入れる…。永遠に続くのかと思わせるこの一連の動きに、私は見とれてしまった。いくら見ていても飽きなかった。人の手は、私が考えるよりずっと偉い。
(※太字、引用者)

ポッキーは、最新鋭の機械と職人技を持つ人間が協力して出来上がり、コンビニやスーパーに並べられる。それを我々が手に取る。

日常、そう深く考える必要もなく口にするお菓子に、実は(略)小さな工夫が凝らされている。それに気づくと、なぜかささやかな喜びが味わえる。

小川さんが感心した『ちいさな工夫』とは、たとえば…

何気ないことですが、袋を開けると、当然、チョコレートのついていない方が上になっています

本当に些細なことだが、だからこそ、我々は何も気にすることなく美味しく食べることに集中することができる。
その味についても、『その時々の嗜好によって、微妙に変わっています』。
それを聞いた小川さんは、『いくらロングセラー商品とはいえ、懐かしさと美味しさを両立させるためには、やはり変化が必要なのだろう』と感心し、過去を回想する。

遠足には必ず誰かが、ポッキーかプリッツを持って来ていた。ポッキーのチョコレートだけをこそげ取って食べる男の子がいたり、プリッツ占いというのがあって、仲のいい女の子同士、プリッツの両端をくわえ、どの位置で折れるかによって友情の度合いをはかったりしていたのを思い出す。何十年経っても、口にした時、そういうささやかな思い出をよみがえらせたい。いくら美味しくても、記憶を根底から覆すような変化では意味がない。変わっていないようで実は変わっている。無数の人々の記憶とともにあるロングセラーを守ってゆく(略)

50歳を過ぎた私は、ポッキーやプリッツを食べる機会がめっきり減ってしまったが、小川さんが言うように、それらを食べると子どもの頃の記憶が仄かに蘇ってくるような気がする。
その頃とは味は変わっているのだろうが、私にとっては、きっと「変わらない味」で、それは、たぶん味覚が自分の記憶を遡っているからなのだろう。

(出典:「お菓子と秘密。その魅惑的な世界」-小川洋子著『そこに工場があるかぎり』(集英社、2021年)所収)

※「グリコピア神戸」についてはこちら


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