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-過去葬- Jan 2025.



幸福の境界

他者とは穏やかさを基盤とするつながりを大切に。同じ目的や価値観をもつ仲間に恵まれること。女性の一般的な幸せがほしいというより、だれと関係を築くかの個別具体性。「あなたといられるなら他になにもいらない」がいい。

不完全ゆえの美しさをかわいいと想い合える相手、間柄に惹かれる。他になにもいらないの正体はきっとこれだ。

一般的な幸せは分かりやすくて測りやすいけれど、その目的の為に何かをがんばることはしたくない。常に心に寄り添って選択をした先で、結果的に一般的な幸せを手にしていたという形が自然。

幸せの主眼をきちんと定めておかないと、外に出るとあっという間にぐらつく自分がいるのが目に見えてる。戻る場所がわかっていれば、いつでも立てるからね。


感謝を伝えるときはわかりやすくきちんと言葉にして伝える。無口で不器用でも何気ない会話から覚えていてくれる姿が愛しい。


自己否定

完璧主義と他者比較が表層で、「初めからこのレベルにまで完璧に到達できなければ、自分は他者から認められない」という恐怖感が深層。存在意義は自分の中にしかない。他者の中にはないよということを徹底的に現実として起こしていたのが真相。

やりたいことをやろうとしても、その二つの要素が邪魔をして一向に進めなかった。でも本当は挑戦しようとしていたことが、その二つの要素を乗り越えるための鍵となっていたことにあるとき気がついた。挑戦していることを成功させる為には、この生きづらさの二つの要素を越えないといけないこと。成功はこの二つの要素を乗り越えるための過程なのだと。どういう心持ちで挑戦していくか。そこの工夫と視点を変えるだけでよかったこと。この生きづらさの二つを解消する為に、この挑戦をしようとしているのではないかと腑に落ちてから、寧ろ終わりの姿が見えて、挑戦を再開することにも恐怖心が少しずつ解けていった。


完璧主義と他者比較に苦しんでいたのに、ある時ふと抜けたような感覚になったのは、人生の休憩時間をとる。心に響いた言葉をひたすら写経し口に出して読む。溢れ出る頭の声をノートになくなるまで書く。noteに心や思考の記録を残す。自分に似た価値観や感覚をもつ人と交流する。自分の好きを宝物のように磨く。これを数年ぐらい少しずつやっていったら、無価値観みたいなのは感じなくなった。



無と静寂

走るのも、掃除も、勉強も、本を読むのも、音楽を味わうのも、ぜんぶぜんぶ無に辿り着くための手段であると言えそうだ。夢中になるあの時間は、自分を忘れる瞬間。忘我すら凌駕した者がたどり着ける極地。

今自分の中心にいるなって時、不思議と心から穏やかなのが分かるようになってきた。なにかに乱されるわけでもなく、ただただ穏やか。こういう状態を意識的に保てるようになると、次は空いた隙間に入ってくるものを自然と受け入れられるようになると思う。息をするように奇跡は溢れていて、今までとは違う景色が隠れているのだろうって。

ほんとうの幸せは、ほんの些細な一場面につまっているんだな。この正月で身に染みた。ハレとケのケを習慣的に行なって日々気持ちよく過ごしたい二〇二五。


個と世界

意味づけの数だけ自由があるといってもいい。世界は無限にあって、それらは同時多発的に存在している。世界が広いと感じるのは多分これだったのかもしれない。

リアルよりもネットの海に救われた経験が多いからこそ、出会い方なんてただの手段でしかなくて、自分自身がどう捉え受け入れるかに解が眠っていると思う。意味を与えるのは自分しかできないし、だれかの意味があなたにも該当するなんてそんなこともないから。

今の自分成分は出会う人々で構成されている。出会うは場所に囚われない。なにを自分が観ているかで決まる。この瞬間が最も新しくて、常に変化している。人と繋がる所以はたのしさ/弱さ/居心地のよさ。そうした先に自分の在り方が決まっていくように思うから、何気ない出会いも意図した出会いも、すべては自分の捉え方次第でどうにでもなる。


過去

過去に誠実でいなければ幸せになれないというのもきっと思い込みで、本当はそんなことしなくたって今この瞬間から幸せになっていいはずで。元来そうあるべきだったんだよ。

過去、誰かから向けられた言葉をずっと握りしめたまま自分が幸せになる、なりたい許可を自分で許せないなんて狂ってる。もうそこにだれもいないのなら、閉じよう、この手で。

過去にいくら誠実であっても相手はもうそこにいない。だからもう解放してもいいと思うんだよね、過去の彼とわたしから。

縛りつけたのも縛りつけられていると選択していたのは自分。そこにはもうだれもいない。だれも座ってない。いるのは次に行きたいのにそれを許してない現在の私だけ。


相手が自分の弱さを受け入れる覚悟がないのに、私が先に受け入れたとしても果ては自己犠牲。そんな繋がりに信頼なんてできない。


社会


ほんと感情があるから寄り添えるというより、どれだけ思考したかみたいな部分ぜったいあるよな。


表現と正しさ


芸術や表現の自由を誰かの正しさで圧迫されることってやっぱり耐えられない。人間はどこまでいっても自分の見た景色の中でしか物事を語れない。「自分の」正しさを突きつける行為が正義だと信じて止まない人間は、突きつけられた人間の気持ちなんて永遠にわからない。

「他者の」正しさを突きつけられ、窮屈な思いをしたことがある者ならそれがどれほど辛苦な事であるか直感的に理解するだろう。大人の事情で考慮したとはいえ、本人の歌う姿が答えだろう。私にはそうみえた。本人の気持ちを確認しなければわからないとかそういう話ではない。私が感じたのはこうだ。

相手の愛に気づけるということは、あなたにもそういう愛があるのだということ。だからこんな広い世界で重なり合って生きていけるのだ。相手の表現や芸術に気づけるということは、あなたにもそんな表現や芸術ができるということ。


note(書く行為)

noteに心や思考を記録として外在化することで、観察し矛盾に向き合おうとする。矛盾を表現することで気づきや解放が生まれる。内面をみつめるとは、「自分」を通して世界につながる準備。「書く」という行為は、自分と世界のつながりの探索。公開する行為は、世界や他者への持続を試みる。それはやがて一体感を生む。

自分の為に書いていると思い込んでいたけれど、それすらも矛盾であったのか。自分はこの世界と繋がりたいと望んでいるからこそ書いているのかもしれない。


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