「プリズン・サークル」
この夏から秋にかけて、
坂上 香さん(ドキュメンタリー映画監督)の著書「プリズン・サークル」を読みました。
私は映画は観ていないので、本の中に没頭し、思考する形でした。
詳しい内容はここでは言及しないことにして、あくまで私自身が感じたものを記述いたします。
まず、読み終えてしばらく経つのに、ずっと考え込んでいる私がいます。書きたいことが山ほどあるはずなのに…でも言葉にならないのです。
偶然にも同じ時期、上間陽子さん「裸足で逃げる」を再読している最中でもありました。
この2冊の根底には「同質のものが流れているはず」と思えてならない、そんな直感が働いていました。ただそれが具体的に何なのか…今も考え続けています。
「プリズン・サークル」は男性受刑者(加害側)に立った視点、「裸足で逃げる」は被害者側(特に女性たち)の視点です。
彼等に共通するのは「奪われた言葉」を取り戻さねばならない、という点です。
「暴力(虐待)は言葉を奪う」…そのことがいかに深刻か。
真の意味での『救済』や『贖罪』は、まず安心して聴いてもらえる場・信頼関係=サンクチュアリを築かないことには始まらない…
それがいかに重要で最優先されるべきことなのか、私たちは真剣に考えなければなりません。
冒頭「傍観者になるとはどういう状態のことか」という問いがあり、私の中に引っかかりました。(p.6)
本を読み進める上で必要なキーになっていったと思います。
「島根あさひ」刑務所でのTCの試みは、終始わたしたち日本社会が取りこぼしてきたもの、後回しにしてきたものに正面から向き合っているのだと思い知らされます。
TCで実践している「エモーショナル・リテラシー(感識)」、これが私たち沖縄の社会の中で必要なのではないか?と思えてなりません。
構造的格差、構造的暴力、格差の貧困、教育格差…そうした根深い問題にどう丁寧にアプローチすべきか…ヒントが眠っているはずだ、と感じるのです。
そのためには繰り返し語ることが重要であり、
「傷を見つけることが大切だ。見つめて、認めるには勇気がいる。」(p.29)と記されています。
暴力は世代間で連鎖されていく…という問題はよく知られているところですが、その暴力が「学び取られた行為」だとすれば。
「学び落とす=unlearn」必要がある、というのです。(relearn=学び直すとも訳される)
サンクチュアリの中で語り、学び落とすことができるのは、全身全霊で耳を傾ける「証人」の存在があるから。(p.88〜92)
支援員だけでなく、当事者同志、互いに支え合います。
私が考えさせられたのは、「では私達は、この社会をよりよくするために、常に『証人』となる覚悟はあるのか?」…ということです。
日頃から労いあい、傾聴し、見守り合う。そんな小さなサンクチュアリ達を大切に生きているだろうか…?と。
よく使われる「寄り添う」という言葉の価値が軽くなってきた昨今(欺瞞でさえある場合ありますね…)、
一歩踏み込んで「証人となる」方を想定するようになりました。
すると、問題が小さなうちに、日々ひとつひとつ丁寧に言葉にしていく、耳を澄ませることの大切さがわかってきます。
繰り返し「尊重」や「尊厳」を意識し続け、だいじな問題を先送りにしないよう皆で支え合う必要があります。
(今回、敢えて自分へ引き寄せて考察しています)
この本を読み進めていた時を思い返すと、冒頭の問い「傍観者側に、私はなってしまってないか」…と怖くなった感覚が常に付きまとっていました。
本の帯文には上間陽子さんの言葉が。
「私たちもまた、泣いているあの子を見捨てた加害者のひとりではなかったか?」
…ページをめくるごとに心に重く浸透しました。
「人は、ひとりでは罪と向き合えない」という一文の意味も、読後の今は痛いほど理解できます。
沖縄県には今も、否が応でも「沖縄戦」が陰を落としている事実があります。
戦争が終わっても、本土に復帰しても、国の想定した紛争の最前線に立たされ続けています。
戦後、その回復の過程ですっぽり抜け落ちていたのが「戦争トラウマ」のケアです。
暴力の連鎖を断ち切る必要性がわかっていながら、国も県も医療も教育も福祉も、やり過ごしてきました。本当に取り返しのつかないことを放置してきました。
「日本はケアの必要な人こそ、ケアしない。問題のある人ほど満期釈放で矯正施設から追い出す。福祉も彼らを蹴飛ばす。だから再犯する。刑務所だけが唯一断らないんです。」(p.231)
…私はこの文が頭から離れません。日本のあらゆる問題に通じているような気がしています。
逆に、この点から目を逸らさず、逆算して手をつけていけば、問題解決の糸口が掴めるのでは?とも感じています。
TCでの実践は何もあやふやな試みではありません。日本がいつもお手本にしてきた国々では既にスタンダードな考え方として拡がっており、世界の潮流となっています。
(2021年には国連が犯罪者の処遇に関して「収監に関する国連システムの共通見解」を発表しています。『マンデラ・ルールズ』『バンコク・ルールズ』という基準もあらためて知ることができました。p.242〜243)
日本は入管にも表れているように、拘置や収監の人権問題が、国際社会から警鐘を鳴らされ続けています。
公的機関の問題は私たち国民の問題です。
「刑務所や死刑などの刑罰は(略)(その国の)文化的な認識や価値観を表す」とあります。(p.244)
私たちの価値観が反映されているのです。
これは傍観者どころか、まさに当事者なのではないでしょうか?
言葉・語りが奪われるということは、日常が「囚人化」してしまうことだと本から学びました。
一見問題なく、従順で、世の中がスムーズに回っているようでも、そこに潜んでいるあらゆる暴力に、私たちは気づけているのでしょうか?
声を上げる事がためらわれる今の空気、それこそ「囚人化」の証なのでは…?
問いを立てることさえ躊躇している自分がいるのではないか…?
…考えはじめると身体のあちこちが冷たくなるような気持ちになります。
それでも、事実を見つめ、言葉を探し、学び落とす環境を確保しなければ、「生きたい」と思える未来はやってこないのです。
TCの理念
「過去の受け止め方によって未来は変えられる」
この考え方は実は、各地の先住民の間で実践されてきたものだ、という話にも深く共感しました。
この本は遠くから眺めるフィクションではありません。
今、現実に私たちの足元で起こっていることです。
坂上監督が当事者性をもって、まさに「証人」として映像に残し、活字に残してくださいました。
本の中に登場し語ってくれた方々もです。
その重みに、今度は私たちが応えなければなりません。
まずは耳を澄まし、声を聴くことから。
勇気を出して、知ることから。
そして「対話」が鍵となります。
一歩ずつ、互いに語りをサポートし合う社会を少しずつ取り戻したい。
心からそう思います。
🌿imo
※(P.S.)ぜひ「NIMBY」という言葉を検索してみてください。
見えてくるものがあるはずです。