#83【介護雑記】ロストケア~喪失の介護~
現在amazonプライム、Huluで配信中の映画『ロストケア(2023年3月)』をようやく鑑賞して、案の定、グッタリと寝込むw
ま、我々の様な現役介護当事者達には、重い・・・。重すぎる。
ただ、”あの時分”、深淵の淵をズルズルと墜ちて「怪物」になっていた私には、斯波宗典(しば むねのり/松山ケンイチ演)の「ロストケア」論は、確実に「救い」だと感じてしまう。それが、また重い・・・。
更に、斯波は、父親の介護は過酷だったけれども、父親の死までは望んではいなかっただろう。あの時点では。私は、母に望んでいた。「早く死んでくれ。」と。「そうするしか、助かる方法はない。」と・・・。
斯波は、父に懇願されて、初めてそれを意識した。私は自発的にそう意識していた。実際に手を掛けた斯波と、ほんの”僅かの差”で、手を出さずに済んだ私と、どちらが「真の怪物」だったろうか・・・。
その後、斯波が手に掛けた41人という人数で言えば、斯波の怪物度の方が高いだろう。だが、根に抱えたものは、同じ「魔」である事に変わりはない。
いやむしろ、自ら手に掛けた父を抱きしめて泣き崩れた斯波の方が、ずっと、人間らしかったと思う。私は母の臨終で涙は出なかったから・・・。
”良かった・・・これで終わった・・・。”
その安堵感しかなかった。
私と斯波に差があるとすれば、それは、苦しい苦しい深淵の淵で、ようやく出逢った、役所の窓口担当者、地域包括支援センターの主任、そして、「認知症とは、”迎えの舟”なのだよ。」と私を諭し、荒ぶる母を、”魔法の処方箋”で、見事に鎮めてくれた「小規模多機能型居宅介護施設」の”湯ばぁー婆”施設長、母が望む「優しい娘」になってくれたケアマネのMさん、母のターミナルケアを全力で指揮してくれたグループホーム管理者のIさん・・・。
この出逢いの差だ。これは大きいと思う。
しかし、ただ単に”大きい”のではない。”奇跡”という意味での”大きさ”であり、それはつまり、”僅差”なのだ。
あの時、父が心不全で倒れ、母のそばを離れたから、私は意を決して、介護申請に行くことができた。助けを叫ぶ手を伸ばせた。それを窓口担当者が掴んでくれた。
それだけの差だ。たったそれだけの・・・。
迷って迷って、悩んで悩んで、ようやくに出した生活保護の申請を、あっけなく却下された斯波。
あそこでもし、もう少し斯波の家庭の事情を聞き出し、介護が必要な父親の存在に危機感を持ち、介護保険制度の面から、救済保護の手を行政が伸ばせたなら、斯波は父に手を掛けることなく、あんな怪物にならずに済んだだろう。私なんかよりも、ずっと、情の深い献身的な優しい男だったのだから ―――。
斯波の圧倒的な「ロストケア」論に呑み込まれそうになった、物語の終盤、裁判の場で、被害者遺族の娘さんが「人殺しっ!!お父ちゃんを返して!!」と叫び声を上げ、ハッと息を呑む。
それは、大友検事(長澤まさみ演)だけでなく、私達観客も同じだろう。
それまでの緊迫した大友検事と斯波の真に迫る論戦が、この一言で、「無」に期する。
そうだ。斯波は自分の勝手な理論で42人の命を奪った「人殺し」だ。それは、紛れもない「事実」。法によって正当に裁かれるべきものだ。それが「社会正義」。
しかし、敢えて、ラストシーンにもって来たであろう、斯波が父親に手を下すシーンでは、私はとても斯波が「人殺し」とは、思えなかった。
ロストケア、”喪失の介護”、
それは、万感の想いに満ちた万感の介護・・・。
どうしようもなかった、親子の愛。
どうしようもなかった、”人の道”だったのかも知れない。
例えそれが、深淵に墜ち行くことであっても・・・。
しかし私は、”その手”を掴める、自分でありたいと思った。
どんな嵐の中でも、闇の中でも。
あの時、多くの人が、深淵に墜ち行く私の手を掴んでくれた様に。
最後に、「みんなの介護」さんが、この映画について、監督の前田哲氏へインタビューした記事をご紹介。
【賢人論】介護業界衝撃の話題作 映画「ロストケア」監督・前田哲氏の映画哲学
認知症患者さんと家族介護者の日常がリアル過ぎて、二度見は出来ない。まるで自分達の事を見ているようで・・・。
でも、「知って欲しい。」という気持ちはある。
前田監督が何故、この作品を作ったのか?その大切なコンセプトを、世の中に広く知って欲しい。