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ミャンマーの歴史に見る経済と政治のつながりは切り離せるか?

こんばんは。今日も数ある投稿の中で私の投稿をご覧いただきまして
ありがとうございます。

ミャンマー編はかなり生々しい内容になっており恐縮です。
いつもの繰り返しの断わりで恐縮ですが、

私は“暴力はあってはいけないし、絶対肯定されてはいけない”と思います。

日本で100年間ずっと戦が無いのは1回のみ!?

有史以来、日本を含めて世界では沢山の紛争がありました。今なお紛争が続いています。この重いテーマですがミャンマーやその近隣諸国の歴史の流れを見ると気づきや教訓もあると思います。

幸い日本は1945年の終戦後、76年平和保たれていますが、江戸時代に1回1669年~1796年までの期間100年戦争や一揆が無かったですが、それ以外では100年以上戦争が無かったことは無さそうです。

ちょっと表現悪いですが、戦争を体験しているのは、もはや75歳以上の後期高齢者の方のみです。。平和、水、空気と我々は無くなったことを経験が無いですが、失った時に事の重大さを想像するにつけ、このようなことが無いことを願ってやみません。

この投稿はインターネットが情報源の中心になっており、私の解釈も入っているので、詳しい真相・真実を突き詰めるには一次情報に当たっていただいた方が良いと思います。

今日はミャンマーの隣国であったインド(東インド会社・大英帝国)とミャンマーの関係について共有したいと思います。

今回の紹介によって経済的取引、内政の不安定化、反対勢力を活用されて、他国の侵略を受けるリスクが高まることが、歴史として感じられるのではないかと思います。

インドの植民地化と東インド会社とは?

学生時代に世界史を選択されていた方には「釈迦に説法」かもしれませんが、東インド会社はインド、ミャンマーそして東南アジアの歴史を語る上では避けずには通れません。
ちなみにここで言う”インド”とは欧州と地中海沿岸以外の地域を指すそうです。
東インド会社は欧州の1600年設立の英国を始めとして、オランダ、
デンマーク、ジェノヴァ(イタリア)、フランス、ポルトガル、スウェーデン、オーストリアがあるようです。

ポルトガルを端を発した大航海時代の中で、インドを舞台にした植民地争奪戦が発生します。
ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがインドのゴアを拠点とします。ポルトガルはここを拠点にキリスト教の布教を目指しす一方、香辛料の利権の確保をします。が、その後ポルトガルはスペインに併合されスペインの拠点となります。

その後、スペインが没落し、英国、そしてスペインから独立したオランダそしてフランスがインドを舞台にした植民地争奪戦を繰り広げます。

インド産の伝統的な手織り綿布は欧州に持ち込まれると品質の良さから欧州で大人気となります。この手織り綿布を入手しようと英国とオランダを中心とした争奪戦が繰り広げられます。オランダが退けられると、英国とフランスが対立するものの、最終的に英国が覇権を握ります。

しかし、英国と他国の争いを通じて支配地が広がりました。さらに英国から産業革命で機械化された安い綿織物が大量にインドに流入してインドの綿織物産業は大きな打撃を受けます。またインドから英国が税金を取るようになり、インド人の英国への反感が強まり遂にインド大反乱がおきます。

この大混乱を鎮圧し、当時のインドの皇帝を退位させることによって、最終的にインドは英国の完全な植民地になります。

英国は当初は香辛料貿易を主業務としていましたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌させてしまったのです。

こちらの情報の多くは以下のWikipediaから取得しました。

コンバウン朝の拡大・支配戦略と対立

前回の投稿で書きましたが、コンバウン朝はビルマ人の中から現れた人物、アラウンパヤーによって1752年に建国されました。
アラウンパヤーは民族間で分裂状態だった領地を統一すると共に、隣国のタイのアユタヤ朝を1767年に滅ぼします。
1769年には侵攻してきた清軍を撃退します。

さらにインドが英国の植民地化され弱体化していくことを好機と捉えて、1819年に現インドのマニプール、1821年にアッサムと周辺を支配下にしていきます。

さらに英国がビルマ族の宿敵モン人に武器を売却しているのではと嫌疑で、現フィリピンのネグロス島に攻撃を仕掛けます。

過去のペグー朝、タウングー朝は征服しても金銀を奪って帰るという一時的な支配だったのに対して、この拡大志向のコンバウン朝は軍隊を駐屯させ
地方官を派遣させるといった永久支配志向でした。

この永久支配の志向が少数民族の抵抗、特に支配によって自らの地位や権益を奪われた部族長の抵抗にあいます。この抵抗層の拠点がインドのベンガル地方となります。

当時、インドを植民地化させた英国は、このコンバウン朝の拡大政策に脅威を感じると共に、東方進出の絶好の機会ととらえて、ベンガル地区のコンパウンド朝の抵抗層を上手く利用して戦争に突入します。

英緬戦争(ビルマ=インド戦争)

3次に渡る英国=ビルマ戦争の始まります。

第1次英国=ビルマ戦争(1824~1826)では、ビルマ軍は近代兵器で武装したセポイ兵を主力とする英国軍に敗れ、ビルマはアッサムやマニプールなどに対する権利を放棄、領土割譲と賠償金を義務づけられます。

第2次イギリス=ビルマ戦争(1851)はラングーン港での英国船の関税支払い問題から英国軍が一方的に軍事行動を開始して、ラングーンをはじめとする下ビルマ一帯を占領、イギリス領に編入してしまいます。

コンバウン朝は、英国と対抗するためにフランスと結ぼうとしますが、その動きを抑えるように1885年、イギリスは軍事行動を開始、この第3次イギリス=ビルマ戦争で敗北したコンバウン朝は滅亡、翌年ビルマは英国植民地に組み込まれることなってしまいました。
これは以下から情報を収集しました。

このように経済的取引が密になり過ぎて依存度が強すぎるのは政治への一定の影響を与えると言って良さそうです。また反政府勢力がいたり、国情の不安定になると、それを利用して隣国の侵略を受けるリスクが高まることが、歴史を振り返ってみると感じられるのではないかと思います。

そして、侵略を行う時は本音はそうでなくても、何かしら大義名分をつける傾向もありそうです。従って、メディアから流れている情報は本質的に妥当性があるのか、表層的な内容なのか見極めるのが難しいですが大切そうです。

本日はここまでにしたいと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
タイトルの画像は写真ACから使用させていただきました。いつもありがとうございます!

また次回の記事で会いましょう!
明日も皆さんにとって良い日でありますように!

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