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19世紀末と20世紀初頭のミャンマーと日本

こんにちは。今日も数ある投稿の中で私の投稿をご覧いただきましてありがとうございます。
6日間ぐらい空いてしまいました。ミャンマーの続きを書こうと思っていたのですが、本件、調べれば調べると沼のように深く、非常に敏感な情報が多く、どのように書こうか大変迷っていました。
断念しようかと思いましたが、きっとこれを書くと新しい視点を得られるかたもいるだろうと、ここは初志貫徹で投稿することにしました。

今日は完結しませんが、は3360文字もあるので15分ぐらいかかってしまうもしれません。

丁度、noteソフトウェアの不具合らしきものの結果、連続投稿が途切れたこともあり、投稿する行為より、中味の伝え方に悩み投稿を見送っていたら日々が過ぎてしまいました。

私は学生時代は歴史、特に戦国時代や江戸時代を学ぶことが好きでしたが、現代史はほとんど勉強もしなかったし、学ぶ機会も少なかった気がします。
このミャンマーを調査するにあたり、偶然見つけた下記のサイトは私自身に大きなインパクトがありました。皆様も良かったらご覧になることをおススメしますが膨大なボリュームがあります。

ファクトチェックは難しいですが、この方自身が検証データの裏付けもあり、右左と考えが偏らずかなりフェアに情報が整理されていると感じました。

私がこのサイトで特におススメは「黄禍論と日本人差別」の1919年(大正8)年4月11日、国際連盟委員会最終会合の内容です。(上記URL)

ここを見ると、スキーのジャンプ競技やフィギュアスケートといった競技でルール変更がなされるのも理解できますし、最近も下記URLの通り、米国で黒人が1000人に1人が射殺されるといった記事が掲載されていたのですが理解できるような気がします。

私も米国遊学中にはアメリカの人々に随分助けられ、親切してもらい沢山の楽しい思い出もありました。一緒にビジネスをした人も皆、親切な人ばかりでした。

ただ、学生時代に私の寮の部屋の前に嫌がらせと思われる“蜘蛛のおもちゃ”を置かれ、自分の席だけ汚れていてケチャップまみれになった・・・みたいな経験も思い出しました。
ショッピングモールを歩いてた時や空港で“ジャップ”って叫ばれたのもちょっと思い出しました。常に光と影がついて回るものだと思います。
戦争の根本的な理由は、既得権利とそれを覆う人種差別による要素も大きいんだなと感じます。

個人個人は国籍・国境を超えて沢山の親切で優しい人々と出会って来ましたが、国と国の関係というのはこれらと乖離しがちなものだと感じます。

前回までは

前回はミャンマーの隣国インドの香辛料や綿織物等の利権をめぐって、英国、オランダ、フランスといった欧州各国が対立し最終的に英国が制し、さらにインド人に課税し行政まで行うことについて述べました。
さらに、領土拡張を目指すミャンマーとも対立し、脅威もあったかもしれませんが、東方進出の絶好の機会ととらえて併合させてしまうところまで述べました。

今回は投稿を読むとミャンマーが植民地となり厳しい状況と、同時期の日本の苦境について共有できると思います。これが日本のミャンマー進出へと繋がっていきます。

植民地下でのミャンマーの扱い

英国の植民地となったミャンマーは厳しい状況となります。あくまでWikipediaとネット情報ですが以下の通りです。

ビルマ(当時の呼称)の国王夫妻はイギリス領スリランカに流刑され、その地で死亡しました。そのために王制は途絶えてしまいました。王子は処刑され、王女はイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまいました。

その後の悲劇を、ミャンマーのバー・モウ元首相はこう書いています。
「外国人による搾取は上層から下層まで、あらゆる方面で暴虐さを加えていた。巨大イギリス企業は上等の部分をすべて独占し、インド人と中国人の商人たちがそれに続いて中級の部分をほとんど手に入れてしまっていた」。

以下のサイトから引用したのですが、バー・モウ元首相の著書『ビルマの夜明け』の一節だそうです。

この植民地は1886年に始まり、最終的に自主独立に回復するのは1948年と62年間も英国(一部の期間は日本の支配)の植民地は続きます。

昭和恐慌

ちょうど、今から100年ぐらい前の1900年代初頭は日本にとって非常に経済的に厳しい状況ありました。具体例としては以下の通りです。

・1923年にM7.9の関東大震災が発生して首都圏を襲った最大規模の震災被害となり死者・行方不明者は推定10万5,000人を出しました。

・日露戦争で勝利しつつも賠償金がもらえず。借金がかさんでいた。
 ※日露戦争を遂行する上で日本は多額の戦費を必要と外債を
  イギリス銀行団とアメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフとその
  人脈が外債に引き受けてもらうが、日本が返済し終わったは1986年。

・1930年に金本位制度に復帰に伴い、円高へと円を切り上げるものの、
 1929年の米国発の世界恐慌で大幅に下落した海外製品が日本に押し
 寄せ、国内産業は大きな打撃を受ける。

・農家の生活を支えていたのは養蚕生糸の輸出だったが主な輸出先は米国で 
 98%を占めたが、世界恐慌で輸出量が半分以下へと激減

・人口が日清戦争の1895年頃に3000万だったが30年後には6000万人へと
 人口増加なのに収入が減るという非常に厳しい状況

・経済立て直しのために金本位制度を停止し円安に輸出増加を目指し
 誘導するが、この政策と低賃金による低額での商品の輸出がダンピングと
 判定され、関税を上げられ欧州列強から経済封鎖にあう

以上の理由で経済の困難に直面していました。日本が初めて有色人種として日露戦争で白人に勝利したことによって脅威に思われ相当いじめられ、さらに天変地異も重なり厳しい印象です。

ちなみにスペイン風邪の流行は1918年~1920年で、日本においても患者数が2,300万人,死者38万人という流行だったそうです。

そこで日本は日露戦争で勝利しロシア(ロマノフ王朝)から譲り受けた
南満洲に属するも鉄道・鉱山開発に夢と希望を託していきます。

しかし、詳細、かなり繊細な内容であることと長文になり過ぎるので割愛しますが、満州事変、そし1937年の中国の西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突である盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけに”支那事変”(日中戦争とも呼ばれています)に発展してしまいます。
 ※あえて”事変”と言っているのは中国と日本の間では双方宣戦布告をしていないと言う情報があったので”事変”としました。

ちなみに1940年は東京オリンピックが開催される予定でしたが、
この“支那事変”によって開催予定の2年前の1938年に開催せず返上することになりました。

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4本の援蒋ルート

南京の戦いは日本軍の優勢に終わり、中国は蒋介石が重慶に首都を移し徹底抗戦します。
中国の主要都市のほぼ全てを日本軍に占領され、中国全体の工業生産力の6%しか持っておらず戦争を継続できる国力はほとんどなかったはずでしたが、それは抗戦は継続されます。

理由は米英仏ソなどによる軍事経済援助が蒋介石政権を支えていた“援蒋ルート”なるものが4本あったからのようです。ルート名と月間補給量は以下の通りです

1.仏印ルート(フランス領インドシナ西部のハイフォンに陸揚げされた物資を昆明まで鉄道で輸送) 15,000トン

2.ビルマルート 10,000トン

3.中南支沿岸ルート(香港に陸揚げされた物資を鉄道や珠江の水運を利用して、中国大陸内陸部に運ぶ輸送路) 6,000トン

4.西北ルート(ロシアもまたトルキスタン方面からのルート) 500トン

ちなみに当時は英国がシンガポーインド、ビルマ、米国がフィリピン、オランダが東インド、フランスのインドシナ(インドネシア)を植民地にしていました。

この欧州列強が蒋介石政権を支援したのは、既存の中国での利権の確保や日本が東南アジアへの進出をしてくるのを警戒していたのではないかと言われています。

従って、日本はこの遮断が”支那事変”を終結させるのに必要不可欠となりました。

本日はここまでにしたいと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。

このテーマはかなり重い内容ですがまた次回の記事で会いましょう!
今週も皆さんにとって良い日でありますように!


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