市子
本棚☆*:.。
わたしが居るのは、いつもの森林公園。陰鬱な曇り空。並木に葉は付いていない。枯れている。落ちている。弱々しい枝がちらちらと視界に映り込む。風が冷たい。代々木公園でもセントラルパークでもない。たぶんヨーロッパのどこかだと思う。曇っているからね。といい加減なうそをつぶやく。本は読んでいない。句も詠まない。スマホも見ていない。SNSは辞めた。だれかのことも待っていない。ただぼんやりと公園のベンチに座って真昼に夢をみる。ジョギングしている人を見る。真っ白なポメラニアンを代わり番こに抱
まばたきするたび目が痛むと相談したくてこの場所をおとずれたはずなのに、いつのまにか別の症状を打ち明けている。 「動悸がして、息切れもします。それから注意散漫、食欲低下、不眠、なんの前触れもなく突然おとずれる………など、です」 わたしとしてはとても真面目にそれを相談しているのに、聞いている桜井先生はだめだった。彼女のことをちらりと見ると、あはは、からかいたい、と髪の生え際から人中窩、それからにやり、右の口じりに笑窪を出して、「それは突発性のあれかもしれない、うらやましい」な
「取材してもいいですか?」 と声を掛けてきた女の人がいて、彼女も新宿行きの夜行バスを待っていた。駅前のバスターミナルで突然取材の申し込みと同時に名刺を渡される。でも、本名じゃなくてトレローニーって呼んでください、と彼女は言う。髪はぼさぼさで牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡をかけている。月の光で水晶玉が…と言い出して瓶底をきらきらさせたりはしないのだけど、にやついている。不気味。 名刺に記載された会社はスマホゲームの開発運営を行っていると言った。 「バスの旅をテーマにゲームを作
メレに憧れていた。なぜならメレは認めない…たとえばメレが駅のホームで鼻血を垂らしていたとして、それでもメレはこころのねじくれを認めない。悲しまない。その感情は認めたくない。受け入れたくない。彼氏に実は四股されていたと知った夜も、メレはひとりで踊る。もちろん泥酔、床に転がるウイスキーボトルを踏んで転げて、メレは忌々しいそのウイスキーボトルにエンドオブザワールドディライト(ヴォネガットの猫のゆりかごが見えたから)と名付けてから昔の恋人に電話する。あわよくば家に呼ぶ。寒々しくて痛
日帰り旅に行きました。たぶん興味のない方が大半かと思うので、行き先については語りません。以下の写真で察していただけると幸いです。 (もしかしたらこの場所に興味を持つ人がいるかもしれない…と想定してお話しすると、この橋は『手奪橋』といいます。それから不思議なことにこの橋の近くには『手接神社』というものがあり、同じく不思議なことに『芹沢鴨の生家』が近くにあります。そしてこれらを繋げていくと、あなたはとても不思議な三角形を作り上げることができ……私は怪しい者ではありません(´・ω
南口のバスターミナルで、名古屋行きの夜行バスを待っている。不運なことに傘はない。急に降り出した大粒の雨を五分ほど浴びた後、びしょ濡れの体でバスに乗り込んだ。 「寒いですね」 と隣の席の女性に声をかけられる。雨で濡れた髪をタオルで拭きながら、「雨が降るとは思いませんでした」とため息と共にその人はいう。 「そうですね、予報では晴れだったと思います」 そう言って、僕も長く息を吐く。 「実は今日、彼女と別れたんですよ」 「はい?」 「だから別れたんです、付き合っていた彼女と」
吹笛と共に飛び上がり、どんっと夜空に号砲を撃つ大きな雫のようにそれは起こって、わたしは遺灰を溢してしまった。でも自分が誰と衝突したかわからない。わたしは人の顔を見ないので。 人の顔を見ない理由はいくつかある。まず第一に人の顔を見ると悪玉菌が善玉菌を殺してお腹を壊し、それから鼻が曲がって目玉が飛び出て口は耳まで裂けて舌が耳殻をぺろぺろ撫でてぴちゃぴちゃという音が脳髄まで到達する前に足のつま先から頭のてっぺんにかけてドレミファソラシドをするようにしてぽつぽつとじんま疹が出て…
「ありがとうございました。 美味しく召し上がれますように」 という銀だこ店員さんのおまじないに里香は癒された。しかし今日はもっと癒されたいと思ったので里香は名護さんに会いに行くことにする。 「本日揚げ物をふたつ買うと百円びきです。 ごいっしょにいかがですか?」 と会って早々胃もたれしそうな提案を持ちかける名護さんに「いりません、たこやきを買ってきたので」と里香は胃を気遣ってにこりと答えた。 「じゃあどうして来たの?」と名護さん。 「それは名護さんに会いたくて」と里香。
十二月になった。だからといって例年ならばどうってこともないのだけど、ことしはいつもとすこしちがう。「十二月までながいなあ…」と待ち焦がれすぎて八月と十月に一度ずつしにかけた。というのは嘘で、でも楽しみだったのは本当。 そしてついにきのう(ここまでは12月2日に書いた)十二月がやってきたのだけど、なにがあったのかというと、ライブに行った。 ………それだけ。 それだけではあるけど、チケットをとったのは五月だったので七ヶ月(?)待っていたことになる。 『よくこどもは時間の経
電車に乗る。歩き疲れているから座りたい。 空いている席——ある。ひとつだけ。でもそこには幽霊が座っているかもしれないと考える。 昔、聞いたことがある。 「どこにでも、時々ぽっかりとひとつだけ席が空いていることがあるでしょう? そこにはね、幽霊が座っているんだよ。だから誰も近寄らないの」 とアキちゃんがだれかに言っていた。 今もそんなことを言ったりするのかなあ?と、電車の中でぽっかり空いた席を見るといつもアキちゃんのことを思い出す。でも高校を卒業して以来一度も会ってい
逃げる夢の話をするように。あるいはどこかの国の神話のように曖昧さを物語り、相手に何通りもの解釈を許す。 心理カウンセラーと話していた。 「絶海の孤島に眠り続けているんです」 灰色のスーツは清潔だけど長い爪はあまり清潔感を感じない。細い手首にはめられている高級そうな腕時計は、艶のある黒い皮が妙な威圧感を放っていておそろしい。 「絶海の孤島?何の話かしら」 「神話の話です」 脈略のない話を繰り返しているので彼女は呆れている。ため息ともならない鼻息を吐き出して、「それで?」
たとえば目の前に一本のマッチ棒があるとする。 それを見てあなたは何を考える? 「マッチ棒かぁ……」 うーんと可愛く唸ったあと、彼女は鼻の頭を指で擦った。それから首をこてんと横に傾ける。 「マッチ棒さん、あなたは赤毛だから、エド・スミスね」 考え抜いて出した答えはそれらしい。 「さぁ、ギターを鳴らして永遠の愛を歌ってごらん」 なるほど。それはとんでもない皮肉だね、と言いたくなる気持ちをぐっと堪えて、彼女の持ってきたなんとかラム酒を飲み込んだ。 「やっぱり彼女っておもし
小さくて赤い橋でした。 「川を渡れば、神様がいるからね」 お父さんはそう言って、わたしの手を強く握ります。 「痛いよ、お父さん」 と言ったわたしの手はみるみるうちに白くなっていきました。そして、どんどん冷たくなっていくようです。 「痛いよ、お父さん」 わたしはもう一度そう言ってみましたが、お父さんはさらにわたしの手を強く握ります。もしかしたらお父さんは、このままわたしの血のめぐりを止めるつもりなのかもしれない。ふとそう考えて、すこし悲しくなりました。 「じゃあ、行って