〈童話〉欲深橋
小さくて赤い橋でした。
「川を渡れば、神様がいるからね」
お父さんはそう言って、わたしの手を強く握ります。
「痛いよ、お父さん」
と言ったわたしの手はみるみるうちに白くなっていきました。そして、どんどん冷たくなっていくようです。
「痛いよ、お父さん」
わたしはもう一度そう言ってみましたが、お父さんはさらにわたしの手を強く握ります。もしかしたらお父さんは、このままわたしの血のめぐりを止めるつもりなのかもしれない。ふとそう考えて、すこし悲しくなりました。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
お父さんが、声を震わせて言います。そして、手を離しました。わたしは、お父さんがどうして声を震わせているのかよくわかりません。とてもなにかを恐れているからかもしれないし、とても怒っているからかもしれないし、正直なところ、わたしにとってはもうどちらでもよい気がしています。なぜって、どちらにしても、神様のところに行かなければならないことは変わりません。
わたしはお父さんに手を振って、赤い橋に足を乗せました。
ギシ—— 橋は重たい音を鳴らします。
ギシ、ギシ、ギシ、ギシ、わたしが一歩踏み出すたびに重みは増していくようで、なんだかとても神聖な気持ちになってきます。
ぱちゃぱちゃ ぽちゃぽちゃ ルルルルルル
川のせせらぎと、鳥の囀り
——ギシ ギシ ギシ ギシ
クラシック音楽を奏でている気分になってきます。歓び、嘆き、意気消沈。気分はすっかりベートーヴェンです。
神様はきっとこれを気にいるだろう。そして、わたしのことも気に入ってくれるはず。そんな期待に胸はどんどん膨らんで、川で泳いでいるのが魚じゃないことはそんなに気になりませんでした。
かまくらみたいな、それよりもずっと大きいような(かまくらに入ったことがないのでよくわかりません)、小さい洞窟のようなところに神さまの住処はありました。橋を渡ってすぐのところにひっそりとあります。
「たずねます」
きっとそれは神さまの声です。暗闇の中に、凛とした声が響きます。
「なんでもたずねてください」
わたしは元気よく返事をしました。
「あなたはなにをひとりじめしましたか?」
神さまにそんなことをたずねられて、すこし拍子抜けします。というのも、何才?とか、小学生?とか、そんなことをまずはたずねられるのかと思っていたので、
「あ、あまりよく覚えていません」
と、あわててそんな返事をしました。
「それは答えになっていない」
神さまはすこしむっとして言いました。
「シュークリームです」
わたしはすこし怖くなり、なるべく罪の軽そうなものを小さな声で言いました。
「それから?」
神さまからの質問は続きます。
「アイスクリームです」
「それから?」
「それから、オムライスです」
「それから?」
カレーライス、お寿司、鶏のからあげ、ハンバーグ、ポテトフライ、ラーメン、ピザ、グラタン、コロッケ、卵焼き、プリン、いちご、はちみつヨーグルト、うどん、おそば、パンケーキ、それからバナナ、ミルク、サイダー、麦茶、ココア……思いつくかぎりのものを答えます。
「それから?」
わたしがいくら答えても、神さまからの質問はつづきます。
「テディベアです。妹のかりんちゃんから奪い取りました」
神さまはそれが聞きたかったのかもしれないと考えて、すこし罪の重そうなものを言ってみます。ところが、
「それから?」
とまたもたずねられ、うんざりです。
「お母さんっ」
いちばん罪の重そうなものを、叫びました。
「でもひとりじめに失敗して、捨てられました」
声に出してみてはじめて実感が湧いてくるようでした。
もう何日経ったのかわかりません。泣いては眠り、泣いては眠り、それを繰り返して真っ赤に腫れ上がった両目のまぶたは、土の壁に擦り付けてひんやりとさせました。不思議とあまりおなかはへりません。でも喉は渇きます。けれど、あの川の水は飲みたくありません。
本を読みました。
唯一、神さまが与えてくれたものです。
そして神さまはしばらくするとこう言います。
「楽しい?」
はい、と答える代わりにわたしはこくんと頷きます。喉が渇いて渇いて、もう声が出ませんでした。
「ひとりじめしたい?」
いいえ、と答える代わりに首をふりふり横に振ります。
「本当に?」 こくん。
「ルイス・キャロルは、それはそれは楽しい物語を他の子どもにも書きますよ?」 こくん。
どうぞ、という意味で頷きました。
というより、神さまはイギリス人? どうしてルイス・キャロルを知っているの? そんなことを考えられるくらいには、わたしの頭はおちついていました。
「妹が本を貸してと頼んできても、二度とあんなに恐ろしいことはしませんか?」
イギリス人かもしれない神さまがそう言って、わたしはこくんとゆっくり頷きます。すると洞窟がぐらぐらと揺れ出して、ねずみが駆け足、虫たちがものすごいスピードで這いつくばって、わらわらと姿を現します。
「おつかれさまでしたっ」
ねずみと虫たちが声を揃えてそういうと、神さまはとたんに静かになりました。
「おまえ、なかなかうまかったぞ」
神さまがお帰りになったことを確認すると、ねずみと虫たちがわたしのことを褒めてくれたので、〈ありがとう〉とわたしは爪で土の壁に震えた文字を刻みます。
「神さまもそろそろ信じてくれたと思う」
ねずみが言いました。
「練習しておいてよかったね」
たくさんいるからどの虫が言ったのかわかりませんが、虫のどれかが言いました。
〈いつまでつづくかな?〉
わたしはまた、爪で書きました。
「はやく天国に行きたい?」
ねずみに聞かれて、わたしはこくんと頷きます。
「きみは比較的、罪は軽めだと思うよ。ここにくる人の中ではね」
「うんうん、たぶん大丈夫だよ」
「きみはぼくたちのことを食べようとしないしね」
「そうそう!こんなに罪人と仲良くなれたのはきみがはじめてだよ!」
ねずみと虫たちはそう言って、わたしのことをたくさんはげましてくれました。
あの赤い橋が〈欲深橋〉といって、欲の深い罪人があの世へ渡る橋だと教えてくれたのは、ねずみと虫たちでした。たとえば親の遺産をひとりじめしたりした欲張りさんは、十中八九、虹の橋を渡れずにあの橋を渡ってくるそうです。そしてあのイギリス人かもしれない神さまに、〈天国か地獄〉という最後の審判を委ねます。天国がどんな所かはちっとも想像できません。けれど地獄はきっとあの川です。
わたしは自分が死んでしまったからここに来たとは思っていませんでした。
「あなたの執着心は怖い。欲深いというかなんというか……たまに橋に捨ててきたくなる」
とお母さんは怒る時にいつもそう言ったので、ついに捨てられたのだとは思っていましたが、でもきっとそのうちお母さんは機嫌を直して迎えにきてくれる。それまで神さまと仲良くしていればいい。神さまとともだちってなんだか少し楽しそう? どこかそんなわくわくした気持ちでいた気がします。
どうやって自分が死んでしまったのかはわかりません。ねずみと虫たちも教えてくれません。理由なんかを知ったところで生き返りとかはどうせもう無理だから、知らなくても問題ないと彼らは言います。それはすこし冷たいようだけど、彼らのいうことは正しいです。天国に行ったあと、ルイス・キャロルと会うにはどうしたらいいかとみんなで作戦を考えているほうが、よっぽど明るい気持ちになれました。
「最後の審判は、きっと明日だよ」
ねずみが言います。
「練習どおり、『こくん』と『ふりふり』だけするんだよ」
虫のどれかが言いました。
〈がんばる〉とわたしは爪で書きました。
なにか言い残したことはありますか?
神さまにたずねられて、つい、かりんちゃんに謝りたいと言ってしまうところでした。それからお父さんにもお母さんにも、かりんちゃんに恐ろしいことをしてごめんなさいと謝りたい。でも、やめておきます。
「人間はここにきて口を開くと、欲深いことを次々と口にしてしまう。神さまを怒らせたくないなら黙っているのがいちばんだ」とねずみと虫たちに忠告されていたからです。
わたしはだまって、〈ふりふり〉と首を横にふりました。ねずみと虫たちの姿は見えないけれど、きっとどこかで見守ってくれているはずだと思ったからです。
「では、光のほうへ行きなさい」
神さまの声は、ここにきてからいちばんのやさしい声でした。
「あ、そうだ。本は置いていってくださいね」
本——?神さまのそのひとことに、胸がドクンとなります。そして、ドクン、ドクン、ドクンと今度は激しく頭が波打ち出しました。それから冷たい汗が身体をびっしょり濡らしていきます。
「お母さん」 呼びかけたのは、わたしです。
かりんちゃんを抱きしめて、お母さんはわたしを振り返りません。そんな光景が脳裏にはっきりと浮かびあがって、本を持っている骸骨のようなわたしの手が震え出しました。
「お母さん」「お母さん」「お母さん」
何度か呼んでみて、お母さんは、やっとわたしを振り返ります。「そんなに愛してほしい?だからこんなに恐ろしいことをしたの?」
わたしは、本を置けずに立ちすくんでいます。「どうしたの?」と神さまの試すような笑い声が聴こえてきました。
「ばかっ」
土壁の亀裂の入った隙間からねずみの小さな声が聴こえました。はっとしてそちらをみてみると、亀裂をガシガシガシガシかじったあとに、くるくるくるくる回ってみせて、「ばかっ」とねずみが真っ赤な顔で鳴いているのが見えました。
「置いて!置いて!置いて!」
虫たちも見えます。虫たちはまるでデモ団体のようにうじゃうじゃうじゃ集まって、みんなで声を合わせて叫んでいます。
「本なんて、天国で、ルイス・キャロルにいくらでも書いてもらえ!」
ねずみが小さく叫びました。
「うんうんっ!しかも新作をたくさんねっ!」
虫たちは優しい誘惑を叫んでいます。
「それに、かりんちゃんならもう大丈夫!お父さんとおうちにいるよ!」
「うんうん!お母さんはもういないけど!」
彼らの言葉を聞いて、わたしは息を深く吐きました。それからこくんとゆっくり頷いてみて、震えた手を本からゆっくり離します。
そして、光のほうへ進んでいきました。
(了)
—————————————————————
参加させていただきました
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?