短編小説/濡れ鼠
南口のバスターミナルで、名古屋行きの夜行バスを待っている。不運なことに傘はない。急に降り出した大粒の雨を五分ほど浴びた後、びしょ濡れの体でバスに乗り込んだ。
「寒いですね」
と隣の席の女性に声をかけられる。雨で濡れた髪をタオルで拭きながら、「雨が降るとは思いませんでした」とため息と共にその人はいう。
「そうですね、予報では晴れだったと思います」
そう言って、僕も長く息を吐く。
「実は今日、彼女と別れたんですよ」
「はい?」
「だから別れたんです、付き合っていた彼女と」
なぜ唐突にそんな身の上話を? と自分でも思ったが、そして数分前に初めて会った隣の女性も思ったはずだが、僕は止められなかった。
「あなたは大晦日をどう過ごすのが正解だと思いますか?」
その答えは決まっていたが、僕は訊いた。
「正解ですか? そうですね、正解があるのかわからないですけど、今はとりあえずバスに乗っています。実家に帰省するために」
という彼女の答えを聞いて、「厳かに過ごすのが正解だと思います」と僕は話しをつづける。
「それなのに彼女はジョーズを見たがります」
「はい?」
「それで喧嘩になりまして、『別れよう』と僕は言いました」
「ごめんなさい。ちょっとよくわからないです」
正直僕もよくわからなくなっています、と言いかけた時、バスがゆっくりと走り出した。
「ジョーズが嫌いなんですか?」
隣から質問が飛んでくる。
「べつに嫌いじゃないですよ」
と僕は答えて、遠ざかる新宿駅を窓から見ている。
「嫌いじゃないですけど……」と僕は窓の外を見るのをやめた。「大晦日は『きみに読む物語』を見て過ごしたかった」
「なるほど、『永遠の愛』ですね。それはたしかに厳かな気がします」
「だけど彼女はジョーズを見たがります。彼女はとにかくジョーズが好きなんで。というか鮫が好きなんですけど、その異常さには驚きます。毎日寝ているベッドも鮫の頭ですから」
そのベッドは肌が橙色だった。牙は水色で柔らかく、ドーム型になっている正体は鮫が大きく口を開いているすがたであって、彼女はその口のなかで眠ることを毎晩喜んでいる。それから彼女はその口のなかに鮫柄のタンブラーを持ち込んでいた。その中身というのはコーヒー約二杯分のカフェインが含まれたエナジードリンクと、おそらく麦芽比率は5パーセントくらいしかない安い発泡酒を混ぜ合わせたものだ。とにかく僕は彼女のその異常性を、隣の女性に懇々と説明していた。
「なかなか異様な人ですね」と女性は顔をしかめる。
「まだまだこんなもんじゃないですよ」と僕は続ける。
「彼女は、ジョーズを官能的な目で見る」
「はい?」
「だから、あれだけ欲望を剥き出しにされて齧り付かれたら、もしかしたら自分は快感を覚えるんじゃないかと言い出します」
「ごめんなさい、ちょっとよくわからないです」
と女性はますます顔をしかめて、僕もそれに合わせて顔をしかめた。僕たちはその顔を見合わせて缶ビールを勢いよく胃に流し込む。その缶ビールは隣の女性がくれたもので、バスに乗る間際に慌ててコンビニで買ったという。
「分けてくれてありがとうございます。久しぶりの麦芽比率50%以上に感動です」
僕はいい感じに酔っている。
「彼女と別れてよかった」と僕は心から吐き出した。
「別れていなかったら今このバスには乗っていなかったし、地元に帰省することもなかった。きっと彼女の部屋で鮫の口腔内ベッドに横たわっていて、そしてジョーズを官能的に鑑賞していた」
「それはなんだか恐ろしいですね」
「恐ろしいです。幻聴が聞こえはじめたりする」
「幻聴が?」
「そうです、鮫の口のなかで彼女の足の人さし指が喋り出します」
「そ、それはどういうことですか?」
「それはつまり、彼女が親指よりも長いことを気にしている足の人さし指が、『親指より短く噛みちぎってほしいよー』などと悩まし気に言い出す幻聴が聞こえてセックスして終わるんです。要するに僕たちはまた永遠の愛について話し合わないまま、一年に終わりを告げるということです」
「それは未来がみえないですね」
「はい、だから別れた」
それで良かった、と僕は何度も言葉にする。
「もっと飲みます?」と隣から缶ビールが差し出されて、僕は迷わず受け取る。
そういえば歳はいくつくらいだろうか?
僕はその時初めて隣の女性に興味が湧いた。鮫に狂った女の話をとにかく誰かに聞いてほしいという思いに駆られてあまり意識していなかったが、意識して見てみるとまあ可愛いほうかもしれない。それからおそらくスピっている。その根拠はない。が、鮫女がこの場にいたら、「服装でぴんとくるよね」と間違いなく言うだろう。
「じゃあ、その彼女は今頃さみしがっているかもしれないですね」
と言われて僕は首を振る。
「それはないですね。きっと彼女は永遠の愛を語らずに済んだことにほっとして、今頃ジョーズでも見てひとり遊びしていると思います」
「まさか、そんな人いませんよ」
と隣の女性は目を丸くした。その反応は僕としては新鮮だった。おそらく僕の彼女がこの話しを聞けば、「そのひとり遊びは楽しそう」とくすくす笑ってまた僕を失望させる。
「まあでも、彼女も永遠の愛は欲しいと思っていますけど」
「もちろんそれはそうでしょう」
と女性は深く頷いて、それから足元に置かれた黒い鞄に手を入れる。そこで僕はこう予想した。
(おそらく鞄から紙とペンを取り出して、はさみは最後に登場させる。そして僕はその紙に鮫女の名前を書かされて、「これは特殊なはさみなのです」と言い聞かせられ、僕は彼女の名前をそれでザクザク切り裂き、縁切り成功)
と以前カフェで見かけた不穏な光景を思い出して予想するが、隣の女性が取り出したのはスマートフォンだった。名古屋で待つ彼氏に到着予定時刻を連絡するという。
「実は占い師なんです」と隣から聞こえた。「もしよろしければ、私の彼氏に占ってもらいませんか? あなたは迷っているように見えるので」
そっちか、と僕は内心ひそかに思いながら「迷っているように見えますか?」と訊く。
「はい、かなり重症だと思いますよ」と真面目な顔で言われてしまった。
「やめておきます」と僕は首を振る。
「怖いですか?」と笑われる。
「怖いです」と僕は正直に話す。「なぜって、彼女のいう永遠は鮫に指をくれてやることだから」
「はい?」
「彼女は僕が鮫に指をくれてやることを望んでいます。それが彼女にとっては指輪の交換になる」
「指輪の交換? 結婚式の? 誓いの儀式のあれですか?」
「そうです、あれですけど、彼女はあれを信用できないと考えていて、永遠を誓うなら鮫に薬指を差し出すべきだと考えています。そして、『これでもう君以外の誰とも永遠を約束できないよ』と僕が血まみれで彼女の前で証明してはじめて永遠だと思っているし、だから話し合おうとしないんです。自分の異常性をごまかせなくなるから」
呆然とする隣の女性に、「だから彼女との未来を占う必要なんてありません」と僕は言って鼻を啜る。急な冬雨でびしょ濡れになった体は氷のように冷えていた。
「彼女のそれは、本気ですか?」
「さあ、わからないですけど、どこまで本気かわからないから恐ろしいというのはありますね」
「そうですか、それなら彼女との別れは正解ですね」
と隣の女性は納得した様子でスマートフォンを鞄に戻した。そして僕と同じく鼻を啜って、「でも私も、彼とは別れるかもしれません」と言う。
「彼の占いによると、来年の私たちは相性が良くないらしいので」
僕は迷った。自分の身の上話を散々聞かせた挙げ句の果てに、「へえ」と素っ気なく言うのは気が引けるような気もするが、新東名は単調すぎて眠気を誘う。窓に映る夜間のライトも橙色で、その光は彼女の寝床を僕に思い出させた。
「もし僕の別れた彼女がここにいたら、『その占い師の彼はでたらめだ』と言うと思います」
と僕は眠たくなってきた呆けた頭で言った。
「え?」と隣からも眠たそうな声が返ってくる。
「だってあなたは濡れ鼠になっています、と彼女は言いそうです」と僕は言った。「それからたぶん彼女は水色の牙と戯れて、くすくす笑って落ち込みます」とまで言いかけたが、やめておく。
「ごめんなさい、よくわからないです。どういうことですか?」と隣に問われる。
僕はそれをはっきりと言葉にしようか迷ったが、「時雨のことです」と短く答え、橙色の光を避けるように目を閉じた。
(了)