『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』を日付通りに読んで思ったこと
待っていたんだ、7月1日が来るのを。
こんにちは、『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』が好きすぎて考察記事をいくつか書いてる一条です。今回の記事に関係する過去の記事載せときます。
夏の七日間に何が起こったのか? ―「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」感想、考察―
現時点(22年12月)での「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」の解釈
いつも勝手な解釈してほんとにすみません……一個人の解釈ということで軽く読んで笑っていただければと思います。
今回の記事は上記の記事の解釈の続きみたいなものなので上記の記事を読んでいただいてからの方がいいかなーと思いますが、全然、どちらでも。読んでも読まなくてもいいです。ご自由にゆるく楽しんでいただければと思います。
さて、玄関~は7/1から7/7の話。日付通りに読むのを楽しみにしていました。もう私ができる範囲の考察はし尽くしただろうと思ってたんですがまだあるものですね。1日ずつ読むことで新しく見えてくるものがあって、ツイッターでつぶやいたのでそれをまとめておこうと思います。ほぼつぶやいたまま載せてるのでぶつ切りです、すみません……。
新しく見えてきたというのが7/4からなので7/4のつぶやきから順番に。
7/4の感想
7/2の
と、7/4の
は、芥川龍之介の「羅生門」が元にあるんじゃないかなー。「羅生門」は高校で習うから男子高校生Oは習ったことが頭にあったって感じが出てていいな。
7/4のチョロQの歌が大事な気がする。チョロQを引くのは走らせるための準備。ねじ切れるまで引くのは準備をやりすぎるくらいやることで、後の遺書をPDFで保存するのとかにも繋がるかなぁ。「もう殺さない」は「もう壊さない」(チョロQを)の言い換えな気もする。壊さないためにチョロQを引いた手を離せない、みたいな……。準備はするけど踏み出せないみたいな風にもとれる……か……?
読み返して思うのはOは徐々に死へと向かって行ってるのよな。徐々に。
男子高校生Oはずっと死にたさがある印象だったけど1日ずつ読み返していくと最初の方はそうでもなくてぼんやりと生きることと死ぬことについて考えてて、それが7/4にちょっと具体性を持ってくる感じ。
みんなが当たり前に生きていくことにおそろしさを感じたり、この世から退室する=死のことを前よりも具体的に考えだしたのが7月4日。Oは7/3に何かがあって死を考えるようになったんじゃないだろうか。私の解釈だと7/3はOはKと過ごしててKからKが死ぬことを聞いたって感じなのだけど……。だとしたら「僕も一緒に」って感じがあったのかもしれない。
7/5の感想
7/5、やっぱりOは死にたさが増してきてるのよな。
これはKからOに向けてな気がする。「だれか」って自分のことかも。Oが泣くんだったらKは引き止めるかもしれない。
7/5はやっぱりOの誕生日な気がする。「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」って思ってるのも(=生まれたことの意識)おそらく学校をサボってイオンモールに行ってるのも包装紙に包まれたものをもらってるのも。誕生日だとしっくりくるなって。
「ダイソーがザ・ダイソーであることの~」は「邦題になるとき消えたTHEのような~」と呼応してて返歌のような感じがとても良いなって思う。
返歌といえば111ページの「だとしても」の歌。この並び順でこの「だとしても」はやっぱり返歌に見えるなぁ。7/5はKとOの二人とも服見てたり本屋に行ってたりで一緒に行動してるんだろうなって思うけどこの「だとしても」の返歌が決定的というか。少なくとも二人が赤の他人ではない根拠としたい。
Kの方もだいぶ切羽詰まってきてるのよな。Kは学校(教師)に不満があるのを感じる。「愛(業務用)」と「愛(家庭用)」のちがいってなんだろうなぁ。業務用の方がしっかりしてるだろうし大きいだろうけど淡々としてるようなニュアンスも感じる。なんにしても愛に飢えてるよな、Kは。
最後の「ほら」は誰かへの、まあOへの言葉で、「ほら施錠されてないでしょ」ってKが開けてみせてるのか、「ほら開けてみなよ」ってOを促してるのか。不穏さがどんどん増していく。
7/6の感想
7/6、サラダ記念日という意識はKとOにあっただろうか。KとOを短歌を詠む高校生と考えるとサラダ記念日は特別な日だと思う。この日は何かを起こす前日。KとOはサラダ記念日までは普通に生きようと思ったのかもしれない。
7/6はKは誰かが殴られているのを目撃する。K自身が殴っているのではなさそうな。Oは容疑者像にそっくりで教頭室へ呼び出されている。しかしOはこの日起こったことの犯人ではない。7/7に容疑者が連行されているから。
7/7だけじゃなく7/6にも何かを起こしたように見えるのが『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』の難しいところで、私は最初からKとOとは関係ない一つの事件が裏で起こっていたんじゃないかと思う。この辺りのことは前にnoteに書いたのでよろしければ→夏の七日間に何が起こったのか? ―「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」感想、考察―
7/6のOは神が出てくる歌が多い。死が近いものになって神のことを考えたのだろうけど、Oにとって神は救いの存在ではない。
自分たちが生きること死ぬことに意味がないというような諦念を感じる。
遺書の校正をしてるもんな、Oは…。「打ち込んだ」だから自分が打ち込んだ遺書ってとれるけど「校正」って言葉は他人が書いた文章に対してのイメージが強いような。自分の文章を校正するとも言うけど。この遺書は自分の遺書でそれを客観的に「校正」してることの歪みととれるかなぁ。
Kはというとこの日は「きみ」「あなた」への想いが強い。
すごい短歌だ。何かを起こす前日にここまでのことを思っている。
「ぼくのからだはきっときみにふれるためだけにある」
「きみのからだはきっとぼくにふれられるためだけにある」
ぼくが生きるのはきみのため。きみが生きるのはぼくのため。二人一緒じゃないと生きていけない。というか、ぼく(K)はぼくがいないときみは生きていけないでしょって思ってるのよな。Kからきみ(私はOだと思う)への想いが重い。
この歌はOの性格が出てる気がする。「あるような気があると思います」の曖昧さ。ぽわんとしてる感じ。これは順番的には教頭室でのことにとれるけど、実は全体を通してのOの想いな気もしている。本当に言いたいこととは何か。
7/7の感想
7/7、七夕。何かが起きた日。この日のKは失ってしまった純粋さの歌が目立つ。Kは「願ったことは叶わない」と知っているし「遺伝子組み換えでない木の実」(=純粋なもの)はもうないと知っている。「上手い勝ち方」を知らない頃には戻れない。純粋さへの憧憬と嫌悪が共存しているように思う。この日のKは7/6までと比べて焦燥感が不安感があまり見られない。何かが起きた日なのに……。
むしろ余裕を感じさせる。Kは世界に呆れているし世界を嫌悪している感じがある。だからこの世界から発つことを自然なこととして受け入れられたのかもしれない。7/3には「日々がこわくてたまらなくなる」と言っていたのにね。では7/4から7/7までにKの心を変える何があったのかというと、Oの心境の変化と行動だ。この期間にOは死にたさを増していって遺書まで書いている。
自分の死に、OがついてきてくれることがKの慰めと救いになったのではないだろうか。
読み返すとKがこの世から発つのは本来は7/7ではなかったのではないかと思う。けれど7/7にしたのは自分はみんなの(もしくは神の)思い通りにはならない=世界(特に親や教師など)への抵抗があったのではないだろうか。そして7/7は短歌を詠む人にとっては特別なサラダ記念日の次の日、そして七夕だ。織姫と彦星が一年に一度会える日、星同士が会える日に二人で星になればまた会えるのではないか、とか考えてたら可愛いね……。
この日のOには動揺がある。この日までは割とぽわんとしてたのにずっと心臓がバクバクいってるのが歌から伝わってくる感じ。遺書をPDFで保存して、Oは何かを起こした。何か、というのがKを刺すことだと思う。Oが動揺の中にいて、7/7は終わる。この後OはどうなるかというともうKを追うしか道がない。
なぜOはKを刺したのかというとKがそうするように仕向けたからだと思っていた(この解釈はこちらに→現時点(22年12月)での「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」の解釈)。今もそう思っているが、今回読み返す中でOからKへの一緒に連れて行ってほしいというような想いを感じた。KからOへ一方的ではなくOからKへも強い想いがあったかもしれない。
たとえば、二人が恋人の解釈でいうと、Oは家庭環境が悪い、そしてKはOへと強い愛情を持っている。OはKと出会って初めて純粋な愛情をもらったのかもしれない。Kがいなくなればまたひとりぼっちになると思えばKと一緒に行きたいと思っても不思議じゃない。
KとOって二人とも家庭環境良くないし繊細だし世界への嫌悪や諦念を持っているしでなんか似てるのよな。似てるからこそ分かり合えるのだろうけど。
この本の最後の歌だけど7/7の最後の歌ととっていいと思う。「人間は」というのがいいところで、「わずかに天使」というのはOから見たKのことでもあるし、人間誰しもがそういう瞬間がある、とOは思っている。Oは世界や人間に心の底から絶望していたわけじゃない。Oは知っている。世界や人間に美しさもあることを。これがOの「本当に言いたいこと」。その上でOはKと一緒に行く道を選んだ。悲劇ではある。けれど星になった二人はきっと会える。七夕は一年に一度星同士が会える日。星になった二人が会えたらもう離れないだろう(……と考えて自分を慰めたい……)。
最後ファンタジーな感じでふわふわっと終わったけど……まあまあまあ……。
今回1日ずつ読んで1番の発見だったのはOもKのことちゃんと好きじゃん?ってことでした。あらためてちょっと書いておきたい。
OからKへの想い
前に書いた、
現時点(22年12月)での「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」の解釈
この記事では、「KがOを道連れにした」「OがKの後を追うようにKが仕向けた」という考察をした。これはOからKへの想いは実はさほど強くないのでは?という前提があっての考えだった。しかし今回読み返していく中でOからKへも強い想いがあると思った。それはOの死への思いと関係している。
Oは7/1、7/2は死への思いは実はあまりない。フリスクとミンティアの違いで命のことを考えたり信長や老犬のことを思って生きることを考えたりはしている。そう、生きること。死ぬことではなく生きることについてという感じ。それもぼんやりとしたもの。高校生ならこれくらい考えても不思議じゃないよね、くらいの。
それが7/4から変わる。Oは7/4は誰しもが当たり前に生きていくことにおそろしさを感じている。7/5は死ぬ夢を見て「わるくなかった」と思い、「どんな死に方がいちばん楽だろう」と考える。7/6は遺書を書いている。普通の高校生らしく生きること死ぬことをぼんやり考えていたOがなぜここまで死を強く考えるようになったのか、というと、7/3に何かがあったからだと思う。
私は7/3にOはKからKがもうすぐ死ぬことを聞いたと思っている。
どちらも7/3の歌。このファミレスでKは自分が死ぬことをOに話したのだと思う。それを聞いてからOは自分の死を強く考えるようになり、遺書を書くまでになった。ここから考えられるのはOは「Kが死ぬなら僕も一緒に」と思ったのではないかということだ。今までKがOを道連れにしたと思っていたけど、そうじゃない、OがKについていきたかった。という解釈。
OからもKへの強い想いがあった。心中したいと思うくらいの。
Oにはわかりやすい愛の歌がないんだけどこのことがもう何よりも愛だよね。ちゃんと愛されてたよ、K。良かったね……(「OからKへの想いは実はさほど強くない」とか言ってごめんね……)。
今回1日ずつ読み返していろんな発見がありましたが、1番の発見はOがKをちゃんと愛していたということでそう考えるとKは救われるよなぁ。あと読者の私も救われる。悲劇だけど悲劇じゃなかった。
日付通りに読むことで梅雨が明けきらなくてじめじめした日が続く感じとか晴れの日がうれしい感じとかサラダ記念日の盛り上がりとか七夕のイベント感とか願い事を考える感じとか、いろんな空気感をリアルに感じられて物語の解像度が上がってめちゃ良かったです。来年も日付通りに読みたいな。
長い文章を読んでいただきありがとうございました!
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