リワーク日記143 自分を責めるより環境を改造しよう
新しい年に突入しました。何はともあれ、おめでたいです。2024年という濃密なレッスンが完了し、次のステージに進級できたのです。みんなおめでとう!!
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私の2025年は、朝の6時30分に愛する子ニャンたちが派手に追いかけっこを繰り広げる物音で目覚めることでスタートしました。いつもそうやってドッタンバッタンと大運動会を開催して私を起こして朝ごはんを催促するのです。猫にとってはいつも通りの朝なのです。ちなみに年越しの瞬間は私はすでに就寝していました。いつも通り睡眠導入剤を服薬しました。夜更かしするほどの体力はありませんし、生活リズムを崩したくないのです。そこはニャンコと同じです。
お正月に初詣に行くといつも思い出すことがあります。時間の流れを、過去から未来へと続く直線としてイメージするキリスト教文化圏とは異なり、日本では何度も繰り返す循環としてとらえてきという話です。仕事や勉強では時間は直線的に感じることが多いですが、私はお正月には時間の循環性を実感します。一周回ってまたスタート地点に戻ってきた〜という感じがします。
ただ、実際の地球の動きは両者を合わせた螺旋形をしているので、単に同じ箇所に戻るのではなく、冒頭に書いた次のステージに「進む」という受け止めの方が正確かなと思っています(地球は、銀河系の中を時速83,700kmで移動している太陽に追従しながら公転しています)。
さて、コロナ禍という近年稀に見る既存秩序への破壊的な幕開けから始まった2020年代ももう半分の地点まで来たのですね。コロナウイルスは相変わらず猛威を振るっていますが、あたかもそんなものなど存在しないかのように振る舞うようになった私たち人間の鈍感力と適応力には驚かされっぱなしの2020年代前半でした。あっという間に定着したリモートワークを目にすると、人類が望みながらも一部の経営者が「できない理由」を並べて拒んでいることの大半はきっとすぐにでも実現可能なのだろうと、多くの人たちが気づいたに違いありません。人類の歴史を振り返れば、ストライキが合法化されても、児童労働が禁止されても、週40時間労働が定められても、最低賃金が定められても、経営者たちの言うような経済崩壊は起こりませんでした。カッコ悪いですね。「週休3日なのに世界最強の経済を誇る国」になるという目標をどの国が最初に掲げるか見ものです。
何度か書いていることですが、残念ながら私はリモートワークには馴染めませんでした。オンオフの区切りが曖昧になってしまい、常に仕事のあれこれが頭の中で響き渡ってしまうため心身に悪い影響を及ぼした経験があるのです。私にとって仕事は、iPhoneがそうするのと同様にサンドボックス内でのみ扱うべきものなのです。仕事は完全にコンピュータ・ウイルス扱いです!そう、仕事はウイルスです!仕事は職場で、プライベートは家でという区切りが必要です。それでも私はリモートワークの拡大には賛成の立場です。リモートワークによって幸福になる人が間違いなくたくさんいるからです。毎年1年ごとに幸福に過ごせる人が増えていく世界を作ることは、経営者たちが声高に叫ぶ「できない理由」よりも明白に優先すべき善いことです。
ちなみに、聞くところによるとグーグルはコロナ禍前からリモートワークを導入していましたが、パンデミック発生前の時点ですでに「いかに社員に職場に出社してもらうか」という課題に向き合っていたそうです。あまりに在宅勤務が当たり前になりすぎたからこその課題です。あたかもコロナが落ち着いた途端に世界の巨大テック企業が一斉に社員に出社を強要し始めたかのように報道されがちですが、彼らは我々日本人の何周も先を走っているのです。
現に総務省によれば、「テレワーク等を利用したことがあると回答した割合は、米国・ドイツでは50%強、中国では70%を超える一方、日本では30%程度にとどまっている」とのことです(総務省「情報通信白書」令和5年版)。日本のダメなところが綺麗に炙り出されたような調査結果ですね。従業員の生活に寄り添えない雇用は淘汰されて良いと思うのは私だけでしょうか?従業員は生活と仕事を両立させたいと日々前向きに頑張っているのに、従業員を職場に縛り付けて足を引っ張る企業経営者に居場所を与えるのは害悪でしかありません。
と、ここまで新年早々社会に対する批判を吠え立てましたが、これは私たち自身が健康なメンタルで過ごせる住み良い社会を作るために必要不可欠な建設的意見表明ですので悪しからず。
私は社会に出てから、社会の決まり事や常識は理解できないけどきっと正しいに違いないと無理やり自分に言い聞かせ、自分の思ったことを封じ込めて社会に従ってきました。しかしその結果、メンタル不調に陥って潰れました。意見を言わないというのは100%賛成したのと同じで、社会は自分の事情にひとかけらも配慮してくれません。代弁してくれる人がいればまだしも、もしいなかった場合には言わなかった自分が悪い、とされてしまうのです。かと言って、社会の常識とは異なる意見は口にしたとしても非常識として無視されがちです。言っても無視され、言わなければやはり無視されるのですからこの社会の罰ゲームぶりが際立ちます。ええ、この社会は「結局私が悪いんでしょ」という結論に追い込まれるよう巧妙に設計された巨大な追い出し部屋のようなものなのです。これがもしファミコンなら間違いなくクソゲー認定されていたことでしょう。
しかしこの追い出し部屋の中で絶えずこだまする「自己責任」という言葉を真に受けてはいけません。人間は社会という巨大なピタゴラスイッチの中で生きているのですから、あらゆる影響を社会から受けます。社会の中では、自分の選択のみならず他者の行動、それに議会や政府の決定、企業の行動が長く複雑な見えない経路を通って思わぬ結果を招くこともあるのです。人と人との関わり合いとは、それぞれが抱える巨大で複雑なピタゴラスイッチの交差です。それが相互にどのような結果をもたらすかなど、そう簡単には語れません。ある不利益が常に自分ひとりに帰責するなどあり得ません。心構えとしても誤っています。
例えばメンタル不調など好ましくない現象が発生したとき、医学や心理学は患者個人の中に原因を見ようとします。しかしそれは必要な視点ではあっても原因の一方しか見ていません。社会学や社会心理学はもう一方の社会の側の問題を探します。仮に個人の側に改めるべき点があるのなら、当然社会の側にも改めるべき点があるのです。このピタゴラスイッチのここの部分、おかしくないか?と。両方が揃って初めて個人の精神疾患と社会病理が解決できるのです。何でもかんでも反射的に「自己責任だ」だなんて叫ぶのは短絡的で検証不足です。
これを踏まえると、リワークで習う「ストレス対処法」や「ストレス管理法」などは主には個人の内部のメンタルを強化することに力点が置かれていると言えます。他方で、私がリワーク卒業後にフォローしてもらっているリワークの定着面談でスタッフさんから教わるのは、職場など周囲に働きかけて自分の心地よい環境を作る技術だったりします。個人が思ったことや自分の希望を聞き入れるよう社会に対して求める行為は正当な行いなのです。
当たり前ですが、人は社会の中で生きているのですから自分の中だけでなく「環境調整」も、幸福で快適な人生・生活のためには必要不可欠です。メンタルを病んでしまった皆さんはきっと優しすぎるほど優しく、真面目すぎるほど真面目で、責任感がありすぎるほど責任感に溢れているのです。これまで傘を取られても雨に打たれ続け我慢し続けてきたのです。そんな皆さんはお釣りで家を建てられるほど「自己責任」を全うしています。不足しているのは「自己責任を問う視点」ではなく、「社会の責任を問う視点」です。
でもそれって評判の悪い他責思考みたいで引け目を感じるって?ごもっとも。そこで押さえておきたい予備知識をひとつ挙げておきます。
そもそも日本で「自己責任論」が広がり定着したのは2004年、イラクで過激派に拘束された3人の日本人解放され帰国した際に、当時の日本政府の閣僚たちから次々に「自己責任」を問う声が上がったことが契機でした。当時の小池百合子環境大臣が口火を切ったとされます(より古くは1990年代に小沢一郎が、もっと日本人は欧米人並みに自立して政府の指示や過保護無しに自己決定する責任を引き受けられるようになるべきだと主張したことに遡ることができますが、それは小泉政権が広めた「個人に責任を押し付けるだけの自己責任論」とはだいぶ毛色が異なります)。あの瞬間から日本は「社会の責任」「政府の責任」という概念が消滅し、「自己責任」が猛烈な勢いで前面に押し出されるようになり、自己責任を前提とした社会が形成されていったということは知っておいた方が良いでしょう。
その自己責任の中身は、「政府の言うことに従わないなら政府を含む社会は一切救済も支援もしないが、それで良ければご自由にどうぞ」という論理です。あれ以前は、いついかなる時もどのような立場の者であっても、たとえ反政府の思想を持っていたとしても日本国民の身の安全と権利擁護は政府の重い責任というのが常識でした(現在も日本国憲法は政府にそう要請しています)。居酒屋で酔っ払いオヤジがそう言うならまだしも、国民の安全と人権についての責任を負う立場である政府高官から個人に責任転嫁する発言が飛び出すこと自体が絶望的なほど非常識でとんでもないほど不見識なことだった、はずなのです…。
しかしそのようなかつての常識的な議論は耳にすることがなくなってから20年が過ぎました。政府・社会は戦前以来とも言えるほど責任を問われることなく自由に何でもできるフリーハンドを手にし、企業はこの風潮を絶好の好機とばかりに福利厚生を削り賃金カットに勤しみ合理化の名の下に苛烈なリストラを躊躇なく進めました。もはや大企業がリストラを行っても、ありふれた風景すぎて誰も大騒ぎしなくなりました。
もともと日本では、政府が負うべき生活保障と福利厚生を企業が肩代わりしてきました。国民の人生を丸抱えしてきた企業がその役割を放棄し、政府もその役割を引き継がず、さらに福利厚生の提供を前提とした低い賃金がカットされてさらに低くなり、雇用まで不安定になったのにセーフティーネットは一向に整備されず、それどころか生活保護バッシングがこともあろうか政治家主導で巻き起こったせいでセーフティーネットに繋がる権利が大きく毀損されました。いつの間にか自己責任論の中身は「政府と企業に異論を唱える個人は許さないが、たとえ言うことを聞いても政府も企業も個人に何も保証しないからあとは自助でよろしく」というスーパー自己責任論へと地獄の退化を果たしたのです。
2023年の日本の実質賃金水準は1997年比で87.8%に落ち込み、非正規雇用の割合はおよそ4割にまで上がりました。日本に暮らす個人の貧困化と疲弊は誰の目にも明らかです。この社会の不安定化が個人のメンタルにも大いに影響を与えているということを多くの人は知っているはずです。あまりに自己責任論に頼りすぎて、社会が個人に合わせて進化することを怠った当然の結果です。健全な社会の実現のためには、社会に対する批判的視点が必要不可欠だということが痛切に突き付けられています。
以上のように、これほどまでに正当で普遍的な正論として扱われてきた自己責任論も、たった20年ほどの歴史しかありません。普遍的でもなければ絶対的な正論でもありません。それでも社会の至る所に漂う自己責任論の空気は、皆さんをじわじわと苦しめているはずです。職場でうまくいかないのは自分のせいではないか、経済的苦境は自分のせいではないか、会社の上層部から叱責されるのは自分のせいではないか、人間関係が苦手なのは自分自身の欠陥のせいではないか…。私だって心の中にはそんな傷だらけの記憶が溢れかえっています。ですが、ベクトルを自分に向けることだけが必ずしも正解に辿り着く唯一の方法とは限りません。視点を変えてみると思わぬ解が見えてくるかもしれないのです。メンタルを病んでダウンしている人は、実は異なる視点を身につけるチャンスを手にしているのです。その視点のひとつが外部環境要因に目を向けることなのです。
ですから、「他責思考は評判の悪い邪道な考え方だ」と恐れなくて良いのです。むしろ、ひたすら個人の内面へと深く深く掘り下げた先にのみ答えを見出そうとする超ミクロ視点のスーパー自責思考が蔓延する現代において、広い視野からバランスの取れた現実的な意見を提供してくれる建設的な視座だとさえ言えるのです。虫瞰だけで世界は分かりません。鳥瞰も必要です。
社会が定める「あるべき姿」と自分が心から思う「ありたい姿」がずれているというのはよくあることです。それで社会の方に自分を寄せようとすると必ず自分の体が悲鳴を上げます。無理をする、というのは自分より社会を優先させることです。それが適度で回復可能な範囲なら高いパフォーマンスを引き出す要因になるでしょうが、その範囲を超えてしまうと途端に「できない自分」を責め立てる危険な刃に変化します。私がそうでした。「自分に刃物を向けるな」は安全確保の基本です。自分を責めてはいけません。自分を責めるほどの無理をしてはいけません。そういう時は自分の心が思う「ありたい姿」を基本として、社会の方を改めるのが正解です。100%希望が通るとは限りませんが、環境を1ミリでも自分に寄せることができたのなら大勝利です。それを毎年続ければ世界は少しずつ過ごしやすい場所に変わっていくでしょう。
この社会はこの20年間で劣化し個人を受け入れる包容力を失ってしまいました。それでもひとりひとりが自分の幸福のために第一希望を表明し、対話し、誰もが暮らしやすいように社会を作り変えていくことはできるはずです。そのとき何より大事になるのが、自分に正直になることです。自分を偽ったり、誰かに忖度したり、不必要な遠慮をしたりすると、自分とは正反対の意見に投票してしまって社会がより住みにくくなってしまう危険性があるからです。正直さは何にも勝る自己防衛です。意見表明において自分は自分、他人は他人です。他者と100%意見が一致するなどまずあり得ません。周囲と異なっている点こそが自分が自分たる所以であり、この社会に多様性を与える源泉であり、意見の固有価値です。卑下せず、萎縮せず、恥ずかしがらず、ユニークな自分に誇りを持って正直な意思表示ができる2025年にしたいです!と心を新たにした2025年のお正月でした!
その前にまずはメンタルダウンしている人はゆっくり休みましょう。社会復帰を目指している人たちは焦らず社会復帰を目指しましょう!社会復帰を果たした人たちは定着を図りましょう!自分のペースで無理をせず。
ということで、今回はここまでです。いつになく勢いの乗った記事だったのではないでしょうか!!というか長文すぎて最後まで辿り着いた人、少なそう。私の文章は気まぐれなので本旨も分かりにくいでしょうし、いつもすみません。まあ、最後まで読まなくても損するわけではありませんのでお好きなところで切り上げてお付き合いいただけると嬉しいです。今年もこんな調子ですがどうぞ楽しみに読んでください。