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親になって読むと涙が止まらない|向田邦子『字のないはがき』

国語教師を辞めた今も、ずっと大切にしている作品がある。中学2年生の教科書に掲載された、向田邦子のエッセイ『字のないはがき』。
教科書の見開き2ページほどの短い文章で、筆者の「父」を中心に、家族について描いた作品だ。

初めて読んだのは、23歳の頃。
半年前まで女子大生だった私の感想はといえば、「いいエッセイだなぁ」程度。
10年前に戻れるなら、23の私をイスに座らせ、お説教をはじめる。
このエッセイがいかに素晴らしいか、向田邦子の言葉センスを一つひとつ説明して、きっと職員室から逃さない。

10年の時を経て、向田邦子のエッセイは、母になった私をブッ刺した。

死んだ父は筆まめな人であった。
私が女学校一年で初めて親元を離れたときも、三日にあげず手紙をよこした。当時保険会社の支店長をしていたが、一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で、
「向田邦子殿」
と書かれた表書きを初めて見たときは、ひどくびっくりした。父が娘あての手紙に「殿」を使うのは当然なのだが、つい四、五日前まで、
「おい、邦子!」
と呼び捨てにされ、「ばかやろう!」の罵声やげんこつは日常のことであったから、突然の変わりように、こそばゆいような晴れがましいような気分になったのであろう。

エッセイの始まりは、父親の紹介から。
磯野波平を思わせる昭和頑固親父の父は、普段から妻や子どもに手をあげる人だ。
そんな父が、親元を離れた娘に何通も手紙を送り続ける。


 文面も、折り目正しい時候のあいさつに始まり、新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで書いてあった。文中、私を貴女とよび、
「貴女の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引を引くように。」
という訓戒も添えられていた。
 ふんどし一つで家じゅうを歩き回り、大酒を飲み、かんしゃくを起こして母や子供たちに手を上げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情にあふれた非の打ちどころのない父親がそこにあった。

時には一日に二通手紙が届くこともあったという。
頑固親父は、「元気にやっているか?」とは聞かない。「頑張れよ」とも絶対言わない。
けれど、丁寧にしたためた文字、嵩高になっていく手紙に、愛情はひたひたと溢れている。

終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手放さなかったのである。ところが、三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札を付け、父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」
と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。

エッセイの後半は、妹の学童疎開についてのエピソードが綴られる。
向田家の住む東京は大空襲に遭い、大勢の命が失われた。幼い末娘を疎開に出したくなかった父も、命の危険に襲われ、ようやく決意する。

字が書けない末娘には、おびただしい数のはがきを託して。

次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。そのころ、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。
 下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いたそうな。
 まもなくバツのはがきも来なくなった。

マルのはがきが届いたのは最初だけ。次第にマルは小さくなり、ハガキすら届かなくなってしまった。

様子を見かねた家族は、末娘を疎開先から連れ戻すことになる。

妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した。小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、ひと抱えもある大物からてのひらに載るうらなりまで、二十数個のかぼちゃを一列に客間に並べた。これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
 夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」
と叫んだ。茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
 あれから三十一年。父はなくなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のないはがきは、だれがどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない。

「小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。」
末娘が帰ってくるのを、ジッと待っている頑固親父の後ろ姿が目に浮かぶ。

このときも、父は何も語らない。
「大丈夫だろうか」「まだ着かないのか」とか、言葉はいらない。

帰ってきたことが分かるや否や、はだしで表へ飛び出すほどの切迫感。
多くを語らない頑固親父が、声をあげて泣いたのだ。

疎開させれば安全かと言えば、決してそうではない。
どこも食べ物がなく、病気が蔓延することもあり、豊かで安全な暮らしはできない。

それでも父は決意して送り出した。
けれど、はがきを見るたびに、決意がぐらぐらと揺らいだのだろう。

空襲で一家死んでしまっても、一緒に暮らした方が良かったのではないか。
いやいや、疎開に出した方が安全だ。爆撃に怯えることはない。
でも自分が空襲で焼け死んだら?
幼い娘は誰が引き取り、育ててくれる?
この動乱の中で。

そんな葛藤を妻にも言えない。
だって大黒柱だから。
父は威厳のある存在でなければならぬのだ。

心の奥でぎゅうぎゅうに押しつぶされていた感情が、末娘を見て、溢れ出てしまったのだろう。

手放したことへの後悔。
辛い思いをさせた娘への申し訳なさ。
無事に帰ってきたことへの安堵。

ごちゃ混ぜになった感情が、母になった私には手に取るように分かる。
親として軸をぶらさずにありたい、確かな存在でいたい。
けれどもただの人間として、心は揺れ動き、子どものように不安定になるときもある。

嗚咽に震える父の背中を想像し、読んでるこっちまで涙が止まらなくなる。

黒板に書いた「珠玉のエッセイ」という言葉を、今まさに身をもって感じている、4年目の母である。

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茨木アヤコ|文章コンサルタント✏️プロフ×note添削
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