
【HSP】全捨離のすゝめ
ぜんぶ捨てるからこそ、まとまった時間や心のゆとりができる。
断言する。中途半端に捨てるだけじゃ、中途半端な時間や中途半端な心の余裕しかできないのだ。
そして、そんな中途半端な時間は、SNSやYouTubeであっさり潰れることだろう。
ここで、ぼくの全捨離のルーツを考えてみる。
いま思えば、「全捨離」習慣は大学時代から始まったように思う。
大学在学時、ぼくは炊飯器を捨て去った。と同時に「痩せ体型」をものの数ヶ月で手にした。ガリガリだったと言っても差し支えないだろう。
少し脱線するが、ガリガリ君のパッケージに描かれているガリガリ君はやや肥満体型のように思う。赤城乳業の狙いは一体何なのか。名と体のこの不一致に惹き付けられる自分がいる。
話を戻そう。
次の全捨離は社会人2年目。テレビを一切みなくなった。BADニュースや、誰々の不倫やフェイクニュースを目・耳に入れたくなかったからだ。
しかしテレビに関しては、55インチの馬鹿でかいものを買っていて、それは映画をみるための「ディスプレイ」としての機能のみの、とんと無機質なものでもあった。
ものを全捨離するだけでなく、サービスなど無形のものもこれまで多く全捨離してきた。
例えばサブスク。サブスクこそ時間もお金もたっぷり取られるからだ。とうぜんの如く、全捨離。かなりの金銭的な余裕ができたことを今でも思いだせる。おかげで投資にも興味がわき、現在ではかなりの利も出て、複利の力を身をもって知ることができた。
鬱になった時には、仕事を辞めた。辞めざるを得なかった。これもある意味では全捨離かもしれない。後悔はあったにせよ、あの当時はそうせざるを得なかったし、その選択は健康に生きていく上では必要不可欠な選択でもあった。
あの当時は、死が眼前にぶら下がり、いつみても目が合い、また手招きしていた。
なににせよ、仕事の全捨離によってかなりの時間と心のゆとりを得ることができたのは間違いない事実で、ほんとうに辞めてよかったと心からおもう。
そうしなければ今の自分はないし、もしかしたらこの世にいなかったかもしれない。極端に捨てたから生き延びられている。そう捉えることもできる。
ただ、生きるためにしたというより、ただただ時間がほしかった。自由に使える時間がほしかった。
誰かのためでなく、社会のためでもなく、家族のためでも、恋人のためでもない。
自分だけのために使える、自分のためだけの時間。
自分というものを見失わないためにも「すべてを捨てる」は必要だったのだ。
いま悩み、頭の中を色んな思考や想いが駆けめぐっている人にこそ「全捨離」をしてほしい。
今「大切にしてる風」なものを手放してほしい。
色んなものを握りしめているその手で何がつかめるというのか。
空いた手のひらでしか、なにも掴めないのだ。
ぜんぶ捨てきれないあなたへ