作品のタイトルを詩的にするのか、タイトルで内容を具体的に伝えるのか
三月下旬に「鬱と就職活動と友の自殺と」という短歌の連作を投稿した。重い言葉がならんだタイトルだ。具体的ではあるが、詩的ではない。
短歌の連作のタイトルにはもっと詩的な言葉が採用されることが多い。もちろん僕もそれについては考えた。しかしいまの形を採用した。そこにはそれなりの理由がある。
まず僕は、この作品をSNS的な流れとはすこし異なった位置に置きたかった。
ここで言うSNS的な流れとは、なんとなく流れてきたからなんとなく見る、という現代人のスマホやPCでの日常的な行動様式のことだ。ツイッターとかでよくやるやつだ。
ただ今回は「私はこれを読む/読まない」という小さな判断を求めたかった。そういう性質の作品だと思っている。
タイトルで予告しているような、内容の重さがある。その分得られるものもあると信じているし、ある種の人にとって人生のどこかのタイミングで向き合わざるを得ないテーマであるとも思う。少なくとも僕はそうだった。
タイトルであらかじめ内容をある程度伝えておきたかったというのが、このタイトルを選んだ理由だ。詩的なタイトルだと内容がはっきりとはわかりづらい。
「自分には縁の遠い話だ」と感じたひとにはスルーしてほしかった。万人向けではない。タイトルは目立つ位置に表示される。そして現代人は忙しい。
いくつかのもっと詩的なタイトルの案
さて、ここまでいまのタイトルを選んだ理由を語ったけれど、やっぱり詩的なタイトルにしたかったなという葛藤もまだ残っている。もっと詩的なタイトルの案を頭の中で検討してみることもある。
「メランコリック・ブルースカイ」
「燃えさかる空獄」
「独空」
「孤独な空と国境線」
書き出してみて、僕はタイトルに空のイメージを入れたかったということに改めて気がついた。そういえば記事に設定した見出し画像も空だった。
やっぱり、この作品につけられるべきタイトルはいまの形ではない気もしてきた。もっとよく検討してみたいけど、上に挙げた中では「孤独な空と国境線」が一番合っているように感じられる。今のところ。
近いうちにタイトルを変更するかもしれない。あるいは僕は半年か一年に一回程度、投稿した短歌を改めて推敲し、短歌の自選をやることにしているので、そのときに短歌とセットでタイトルに変更を加えるかもしれない。
タイトルで内容を予告することについては、別のやり方を考えてもいいのかもしれない。しかし、タイトルを変更しないという結論に落ち着く可能性もまだ普通にある。折衷案という方向性を模索してみてもいいかもしれない。
ときどき言っていることだけど、こういう試行錯誤の過程も含めて自分の表現だととらえている。
上手い人がひたすら上手いのでもなく、下手な人がひたすら下手なのでもなく、僕は成長していたい。まだ短歌をはじめて四年目で、成長の限界に達したという感じはしていない。
今日からnoteの新エディタへの移行が行われたようなので、さっそくいくつかの機能を試してみました。この文のすぐ上にある横線が新機能の区切り線になります!!
短歌とは、5・7・5・7・7のリズムで詠まれる短い詩。ひとの気持ちがつづられることが多い。季語は不要。
教科書で習うような古典だけではなく、現代の若いひとびとにも親しまれ、たくさんの新しい短歌が日々つくられている。
僕もその中のひとりで、短歌に詳しくないひとも面白さが感じられるような短歌をつくりたいと考えている。