なぜ僕たちは映画を「つくる」のか。(映画「ゴジラ」を観て)
ゴジラシリーズのみならず、日本の映画界に広く影響を与えた不朽の名作。
公開から70年が経とうとしている今、「ゴジラ」という概念だけでなく、「なぜ映画をつくるのか」も広く問うているような作品のように感じた。
「ゴジラ」
(監督:本多猪四郎、1954年)
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「ゴジラ-1.0」が人気を博している中、第1作目となる1954年製作の「ゴジラ」が注目を集めているのは、時代設定が近かったり、当時へのオマージュがふんだんに用いられたりしているからだ。(ざっくり)
「ゴジラ-1.0」を手掛けた山崎貴監督も、初代ゴジラへのリスペクトを語っている。
実際、VFX技術の進化によって、ゴジラが街を破壊する様子などの迫力は圧倒的だ。熱線の威力の凄まじさは、リアリティというレベルを超えて、観客の恐怖を煽っていただろう。
しかし「生々しさ」という点でいうと、1954年製作の「ゴジラ」も遜色ない。大戸島の家屋をゴジラが倒壊していくシーン、人々の恐怖におののく表情と併せて非常にリアリティがある。東京や千葉一帯が火の海になっている様子もおぞましい。映像が粗いがゆえに、観る者の想像力が掻き立てられてるのだろう。
「オキシジェン・デストロイヤー」という水中酸素破壊剤を生み出した芹沢の葛藤。しかしこれは為政者に対する警句でもある。戦後10年満たない時代の作品だからこそ、そのメッセージには説得力があった。
「オキシジェン・デストロイヤーを社会の役に立たせたい。それまでは社会に内緒にする。(中略)もしバレたら、僕の死とともに研究も消滅させる決意だ」
「尾形、このオキシジェン・デストロイヤーをひとたび使えば、為政者たちが黙っているわけがない。原爆対原爆、水爆対水爆……(中略)分かるだろう?」
「人間という生き物は弱いもので、書類をいくら焼いたとしても、僕の頭の中には残っている。(中略)ああ、どうして僕はこんなものを作ってしまったんだ」
そんなメッセージの強度ゆえ、「ゴジラ」という概念が生まれていない時代にも関わらず、「ゴジラ」という作品が当時の人たちに受け入れられたのではないか。
「ゴジラ」の結末において、アナウンサーがゴジラへの勝利を報じる。
しかしいったい、「勝つ」とは何だろうか。
尾形や山根博士の苦悩に満ちた表情を見るにつけ、世の中「勝ち負け」だけで判断できることなど少ないのだなと感じた。ゴジラ的なものが次々と生み出されている2020年代、僕たちは先人のメッセージ、その本質を謙虚に受け止めなくてはならない。
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タイトルで僕は、「なぜ僕たちは映画を『つくる』のか。」と記しました。
確かに映画関係者でなければ、僕も含め、ほとんど多くの人たちは映画を鑑賞する立場に過ぎません。しかし映画の感想を述べたり、ブログに書いたりするような行為を通じて、映画文化を広めてきたのは間違いなくて。であれば広義の意味では、僕たちも映画をつくってきたといえるのではないでしょうか。
映画文化の担い手として、なぜ僕たちは映画を「つくって」いるのか。戦後10年に満たないタイミングで作られた「ゴジラ」には非戦というメッセージを強く感じました。彼らの気概に恥じない映画づくりを、僕たち一人ひとりが考えていくべきだと感じます。
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