哀れで悲しいやつは、誰だ?(桐野夏生『日没』を読んで)
7月は桐野夏生月間のごとく、いくつかの小説を読んだ。
『日没』
(著者:桐野夏生、岩波書店、2020年)
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『日没』は、メタファー的小説といえよう。
もちろん多かれ少なかれ、優れた作家が書く小説というのは、社会の暗喩を示唆している。だが、『日没』は最初から最後まで、全てメタファーで覆われている。体制という強者に対して、個人という弱者。小説家として大成を果たしていない主人公・マッツ夢井にとって、とても抗えるものではない。
体制側に与する人々もまた、俯瞰でみると「個人という弱者」に過ぎない。マッツ夢井をさんざん痛めつけてきた人々は虎の威を借る狐である。特に何の技能も持ち得ない秋海という女性は哀れだ。痛めつけられているマッツ夢井と、痛みつけている秋海。私は秋海の方が哀れで悲しいと感じた。
逃げられない。
絶海の孤島のごとく、マッツ夢井が拘束された場所は、そっくり現代社会と同じだ。私たちは生まれながらにして自由でもあり、不自由でもある。日本に生まれた全ての人たちは、同性婚が認められていないし、夫婦で異なる姓を持つことも許されていない。アメリカのいくつの州では、堕胎行為でさえ違法とされてしまう。そんな「法律」に同意していないのに、民主主義という名のもとに、不同意が既成事実とされてしまう。不自由なことばかりでなく、それなりに色々なことを「決めてくれる」ともいえるのでデメリットばかりではないが、その辺りはどうなのだろう。少なくともマッツ夢井は絶海の孤島で“不自由”を嘆きながら、命をすり減らして生きてきた。
マッツ夢井のキャラクター設定を少し変えただけで、彼女がいた場所の居心地の良さも変化しそうだ。人によっては、決められたことを淡々と行ない、空いた時間にはランニングやトレーニングに勤しめる“楽な場所”に早変わりしそうだ。九段理江が書いた『東京都同情塔』を想起させるような、“ダメ人間製造”の物語としても捉えることができそうである。
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本作に関する、桐野夏生さんと武田砂鉄さんの対談も面白かった。
「売り方として「これはノーベル賞作家級」「これはエロティックなことを書く人」「これは泣けるエンタメ」と小説が分類され、そのジャンルを作家たちが担わされてゆく。そこに強い違和感を抱いたのが、執筆のきっかけ」という桐野さんの言葉に、個人的には救われる思いだ。
資本主義は便利だが、取り込まれ身動きできなくならないよう注意して歩を進めたい。
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