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コメント欄での「引き際の美学」

いつ頃からだろう
noteのコメント欄がチャット状態であるのは

チャット状態でも、記事主と読み手が議論し
有意義な時間や意見交換になれば幸いだが
コメント欄のチャットは
記事主によっては、苦手意識を持たれる危惧がある

約3年前の話
わたしのコメント欄で、131件のやり取りをした
1記事にあたり131件、半分はわたしの返信

おひとりからの返信に次ぐ返信は
noteをやり始めのわたしには
コメントを返すのが礼儀だと思っていた

記事とはまるで無関係なコメント
返信すると、また返信が来た

あの時のわたしは労働者で
『おうち時間』が推奨される世情

心身共に健康であり、仕事や人間関係にも
なんの不安もなかった
「なかった」から、読み手へ返信できた

仮に、今のわたしにある健康状態なら
とてもじゃないが返信に付き合えない

積極的にコメントを残す、交流を図る
これらは否定されることがないし
充実したnoteライフを送ってくださいと願う一方
「チャット状態は記事主が望んでいるのか」

時々、記事にて「議論はお断り」を見る

恐らく議論にならなくても
返信に重ねて返信が来るのは
記事主によっては労働強化に等しい気持ち
「それは、アナタの記事で書いてくれないかな」
わたしには、叫びが聞こえてくることがある

コメントがあるのは素直に嬉しい
コメント数が多いのは、本望であるとしても

美味しいものは、少量食べるから美味しい
「また食べたい」欲が増してくる

食べ物にしろ、対人関係にしろ
ほどほどのラインで終わらせるので
恋しさが募る、「引き際の美学」

記事主が心底「ありがとう」と感謝する内に、引く
読み手は返信を控えることで
記事主から欲せられる人になる

このような、嬉しい駆け引きがあっても
バチは当たらないと思うのだが

濃淡の付け方
1個のコメントに、どれだけ素晴らしいか
記事と記事主への賛美で濃ゆさをつけ
返信ラリーでの濃厚さは控えていいような

それなら、毎回淡白なコメントをくれるのが
記事主の時間的な負担が減ると感じる