最終講義
皆さんは「最終講義」というものに足を運んだことがあるだろうか。
最終講義とは、大学を退職する教員による、最後の講義である。普段とは異なり公開講座になる場合が多く、私もいくつか最終講義に参加してきた。
自身の専門性を活かしつつ、より普遍的なテーマについて語る。最終講義の内容としては、このパターンが一番多い。通常の講義で、生きるとは何か、学ぶとは何か、について語り出せば、鬱陶しがる受講者もいるだろうが、最終講義の場合、むしろそういった語りを聴きに来ているところがある。
*
最終講義を終えられたばかりのある先生に誘われて、海鮮丼をご馳走してもらったときのこと。当然話題は「最終講義」が中心になった。
あえて気負ったりせず、普段通りにやろう。最初はそう思っていたけれど、何だか落ち着かない。やはり最後ぐらい、深みのあることを言おうか。そう思って、書斎の本棚に目をやる。
「先人たちの力を借りようと思って、最終講義を書籍化したものを何冊か読んだ。いやー……真似できないものばかりで、溜息が出たよ」
先生は苦笑しつつも、その表情には「私もやりきった」という晴れやかさがあった。
*
上記のようなやりとりもあって、私自身、「最終講義」を収録した書籍には、強い関心を持ってきた。
せっかくなので、最近手に取った「最終講義」本を一冊紹介したい。
KADOKAWAから刊行された、『最終講義 学究の極み』。本書は、かつて『増補普及版 日本の最終講義』というタイトルで出版されていたものが、分冊の上、文庫化したものである。単行本時代からたびたび読み返していた本であったので、文庫化はシンプルに嬉しい。
本書から、あえて一箇所文章を引っ張ってくるとしたら、私は、精神医学者・土居健郎の発言を紹介したい。
数十年間、医療の現場や学究の世界に身を投じてきた人物が、最終講義の場で「わかればわかるほどわからないところもふえていく」と発言したことは、極めて重要である。
私はこの言葉から、妙な安心感を受け取った。私自身、読書生活を続けていく中で、学べば学ぶほど、自分の不全感が増していくという感覚があった。この感覚は決して不健全なものではない、ということを、土居の指摘は気づかせてくれたように思う。
『最終講義 学究の極み』には、土居健郎の最終講義だけでなく、名のある学者による、力のこもった名講義が多数収録されている。強くお勧めしたい。
※※サポートのお願い※※
noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。「本ノ猪」をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。
ご協力のほど、よろしくお願いいたします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?