在野研究一歩前(14)「読書論の系譜(第零回):巷に溢れる「読書論」」
本屋に行くと、「ぜったいに内容かぶってるだろ……」とツッコミを入れたくなるほど、「読書論」「読書法」「読書術」と題した書籍が目につく(1)。私も「読書」好きであるため、一応は手にとってパラパラと捲ってはみるが、どうも本腰を入れて読もうとは思えない。とくに「速読」を強く推している本については、「自分のペースで速く読んだり、ゆっくり読んだりすればいいだろう」と一人納得して、手に取ることすらしない。
このように巷に「読書」に関する本が溢れているのはなぜなのだろうか。
色々と原因は考えられるが、大雑把に言えば次のようになるだろう。
日々の生活が忙しく、読書に割ける時間が限られているから、出来るだけ効率よく「読書」に取り組みたい人が増えた
「読書」というのは、楽しいものではあるけれども、やはり「時間」を消費するものであることは確かだ。医療技術の発展や福祉設備の充実などにより益々長寿化がすすむ昨今であろうとも、いつか人間は死ぬことに変りはない。できれば、無駄に「時間」を消費したくないというのは、万人共通の理解であろうと思う。
そのような人びとの心情に配慮(?)した結果、世に多くの「読書」関連本が流通しているのである。
私は先程「ぜったいに内容かぶってるだろ……」とぼやいた。
そのぼやきは、何も無根拠で発しているわけではない。
私は大学生になってからというもの、ずっと日本の近代(明治から昭和前期)の文化・思想・哲学・生活と向き合ってきた(「ずっと」と言っても「5年」でしかないので、先輩の研究者から見ると「青二才」であることは自覚している)。「向き合う」というのは、つまりかつて発行された書籍や雑誌を読み「当時」の一端に触れるということであるが、そこで私は何度も「読書論」と邂逅したのである。
著名な文学者や哲学者、文芸評論家、宗教家が書く「読書」関連書籍―その数を想像すると、数えたことはないが眩暈を覚えるほどである。「一人一冊」なんて律儀なものではない。一冊の中にそっと添える小稿のような形もあれば、まるまる一冊「読書論」という場合もある。
そのような近代日本の「読書論」の様相を見てきた私には、現代流布している「読書論」というものに「新奇性」を見出すことができない。しかし、これはあくまで「印象論」であり、もしかすると近代と現代の「読書論」には、明確な「違い」があるのかもしれない。また、現代の「読書論」の中にも、自分を大きく変えることのできる「アドバイス」が含まれているのかもしれない。これは真剣に探っていく必要がある。
そこで今後「在野研究一歩前」では、時々「読書論の系譜」と題して、近代・現代関係なく「読書」に関する書籍を取り上げて、簡単な内容紹介と感想を纏めていければなと思っています。よって、今回の記事のタイトルは「読書論の系譜(第零回):巷に溢れる「読書論」」としました。
記念すべき(?)「第一回」については、澤柳政太郎編『読書論』(哲学書院、1892)を取り上げたいと思います。一冊の本でも数回に渡って纏めていくことになると思いますが、ぜひおつきあいくださいm(__)m
(註)
(1)ちなみに最近私が目にした「読書」関連書籍のうち、友人や知人に貸してもらって多少時間をかけて読んでものを以下に列挙しておく。
・適菜収『遅読術 情報化時代に抗え!』(ベスト新書、2019)
・齋藤孝『読書する人だけがたどり着ける場所』(SB新書、2019)
・松岡正剛『遊読365冊 時代を変えたブックガイド』(工作舎、2018)
・内田樹『街場の読書論』(潮出版社、2018)
(読んだ感想お待ちしています!)