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在野研究一歩前(26)「読書論の系譜(第十二回):宮武南海「○讀書の心得」(東京學舘編輯『学海燈影 一名 学生必読』東京學舘獨修部、1893)②」

前回に引き続き、東京學舘編輯『学海燈影 一名 学生必読』(東京學舘獨修部、1893)中の「宮武南海「○讀書の心得」」を取りあげたいと思います。

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「第二、書を見るに當りては天下の書は悉皆同等の人の著述せるせのと見做して之を見る可し然らざれば書を見ることにならずして人を見ることになるなり試に尋常一般の書生が書を見るときの感情を窺はんにスペンサー、オースチンの論説を見るときは未だ其内を見ざるに先ち是れ有名なる碩儒の著作なれば蓋し善美ならんと心中豫め其善美ならんことを定めて讀書に掛るを以て其先入主となり章として善ならざるなく又句として美ならざるなく善美至れり盡せりと拍手喝采以て閲了し其閲了の後も何となく感歎極りて殆んど酔へるが如く又狂せるが如く著者を以て鬼神の化現かと疑はしむるに至るものなり然れども彼等も亦人なり固より過誤なきを保し難し若し虚心平氣を以て之を閲讀したらんには往々瑕瑾もあり缺點もあることならん又眼を一轉して學生諸君が未だ姓名をも知られざる人の著書を見るや之を繙くに先ち是れ必ず見るに足らざるものならんと心中既に之を見下して掛るを以て徹頭徹尾愚論凡説と思惟せられざるものなし其間多少新奇の妙案もある可きに眼中既に其書なく其新奇の妙案をも輕々看過し去りて一も記憶する者なかる可し此等の讀書に於ては蓋し其閲了後唯其面白くあらざりしを記憶するまでにて其論旨の如何は記憶することなきを常とするものヽ如し然れども其眞に面白くなしと感觸するものは其論旨を知了して後始めて起るものなる可し故に其論旨を知了せざる者は實は其論旨の面白きや否やは未だ以て判知すること能はざるものとす斯の如く夫れ碩儒の著述せるものと思惟せるも其正しきを得ず又其賤劣なる者の著作せるものと思惟するも其正しきを得ず故に天下の論説著書を悉皆同等の人の書けるものと思惟して之を閲讀す可し然らば其著者の人物の爲め道理を判定する自己の腦力を妨げらるヽの憂ひなく必ず眞是眞非を判斷することを得可」(P13)

⇒第二の心得としてあげられているのが、「著者に振り回されず読書すべし」である。言い換えると、「有名な著者の本なら、いい本にきまっている」という思い込みに陥らずに読書すべし、ということである。
 引用文で取り上げられているのは、スペンサー(1)、オースティン(イギリスの法哲学者であるジョン・オースティン)の著作であれば、読まずにでも絶賛してしまう学生たちの体たらくである。スペンサー、オースティンのような「碩儒」であっても、その著作中には「瑕瑾」や「欠点」が存在する。著者名に依存する読書に取り組むことは、この「瑕瑾」や「欠点」が見えなくなることにつながっている。これが、宮武南海の問題提起である。
 加えて、著者名に依存することは、無名の人物の著作と向き合うときにも悪影響を及ぼす。「無名な人物の著作なら大したことはない」という決めつけ、がこれである。
 以上の二点を通して言えるのは、著者が有名であるか無名であるかに左右されず、本を読むことが大切であるということである。そのため、宮武南海は読者に「世にあるすべての本を同一人物が著したものとして捉えるべし」と説く。この思考が、有意義な読書を成立させるのである。

 以上で、「在野研究一歩前(26)「読書論の系譜(第十二回):宮武南海「○讀書の心得」(東京學舘編輯『学海燈影 一名 学生必読』東京學舘獨修部、1893)②」」を終ります。
 お読み頂きありがとうございました。

(註)
(1)ハーバート・スペンサーについては、挾本佳代『社会システム論と自然 スペンサー社会学の現代性』(法政大学出版局、2000)を参照。


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