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消化不良

 一応最後まで目を通したものの、消化不良で終わってしまう本というものがある。
 まあ、本当に完全消化することなど困難だとは思うが、せめて「大体は概要を摑めた」と言えるレベルにはもっていきたい。

 消化不良を解消していく方法には様々なものがあるが、バージョン違いの本を手に取ってみるのも一つの手だ。
 一つのタイトルには、それが古典と評されるものであればあるほど、複数のバージョンが存在する。翻訳者が違ったり、編者が違ったり。扱っているテキストが同じであるからといって、その違いを軽んじてはいけない。時に、まったく別の本を読んでいるのではないか、という体験をすることもある。

 最近の実体験で言えば、パスカルの『パンセ』があげられる。
 私は最初、岩波文庫版『パンセ』(上・中・下)を手に取った。参加していた勉強会の課題図書であったので、頑張って読んだ。ただ、私の読解力不足が祟り、明らかに消化不良のまま終わってしまう。

 次に手に取ったのは、白水社から出ている『パンセ』。これは「ブランシュヴィック版」と呼ばれるもので、現代の読者でも読みやすいよう、『パンセ』の諸断章をテーマ別に編み直した内容となっている。
 私は「そんなに変わらんやろ」と半信半疑で、この白水社版を読み始めたわけだが、なんとこれがするすると読めてしまう。編み方でこんなに読み心地が変わってしまうのかと、正直驚いた。

「ある著者たちは自分の著作のことを「わたしの本、わたしの注解、わたしの物語、等々」と言う。かれらは自分の家に住んで、しじゅう「自宅では」を口にする町人根性を脱していない。むしろ「われわれの本、われわれの注解、われわれの物語、等々」と言うべきである。その理由は、ふつうそれらのうちには、かれら自身のものよりも他人のものがいっそう多くはいっているからだ。」
パスカル著、由木康訳『パンセ』白水社、P27)

 この指摘は、白水社版『パンセ』にもあてはまる。
 私たちは『パンセ』をひもとくことによって、パスカルの思索に触れることができる。だがそれは、パスカル単独の創作物に触れていることを意味しない。翻訳者や編集者、装幀家など、本作りには様々な人間が関わっている。
 それだけではない。本作りに直接関わっていなくても、例えばパスカルであれば、彼が思索を重ねていく上で参照した先人たちの知の蓄積も、本の中には詰まっている。
 そういう本である『パンセ』が、そんなに易々と読み解けるはずがない。消化不良になるぐらいが、ちょうどいいのかもしれない。



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