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働きかけ

 近所のスーパーに買い物に出かけるだけで、数組の外国人観光客とすれ違うほど、京都は国際観光都市である。
 時折道を訊ねられるが、どの観光客も溌剌としていて、表情はにこやか。詳細を聞かずとも、京都を存分に堪能していることが伝わってくる。
 私はこの場面に接するたびに、何か行き場のないモヤモヤを感じてきた。観光客の方々が京都で楽しいひと時を過ごせていること自体には喜びを感じつつ、なぜかそこにノイズが走る。
 このノイズ、モヤモヤは、一体何なのか。

 その正体に気づかせてくれたのが、作家・辻邦生の次の言葉であった。

「最近私が達した結論では、旅でも日常生活でも〈想像力〉が働かなければ、まったく楽しくない。〈想像力〉さえあれば、どこにいても最高の楽しさを味わうことができる。私たちが日常生活のなかでルーティン化するというのは、この〈想像力〉が活発に動かなくなるということだ。生活の活性化とは〈想像力〉を活性化することに他ならない。だから旅に出ても〈想像力〉がすこしも動いてくれないと、旅は新鮮でも何でもなくなる。」
辻邦生『地中海幻想の旅から』中公文庫、P246)

 外国人観光客を溌剌とさせている「京都」を、私は味わえていない。
 このことへの不満からモヤモヤが生じていたのだ。何とも情けない話である。
 私が「京都」を味わえていないのは、当然といえば当然で、外国人観光客の方が「京都」を堪能するために費やしているエネルギーを、私の方は少しも消費しようとしていないからだ。
 このエネルギーから生み出されるのが、辻邦生の云う〈想像力〉なのだと思う。つまり、「京都」を堪能したければ、そこに住んでいるだけでは不十分で、それなりのエネルギーを費やして、こちらから働きかけていく必要がある。

 そうと分かれば、実際に行動に移していくしかない。
 移動に時間のかからない生活圏内で、これまで参加したことがなかったイベントに足を運ぶ。
 取り掛かったのが、昨年の2月初旬。時節柄、目に留まったのが、節分の催しであった。
 実際に参加することにしたのは、京都市中京区の総本山 誓願寺で開かれた節分会。長唄演奏と日本舞踊に触れられ、豆まきも行われるということだから、これは行かなければ損である。
 能動的に行動すれば、生活圏内にいながら、拍子木・鼓・三味線の音を堪能できる。この事実に深く感動して、「来年の節分会も参加しよう」と心に決めた。

 ということで、有言実行。先日、二度目の「節分会」に足を運んだ。働きかけ、が継続している感覚があり、非常に満足している。
 ちなみに本稿は、節分の豆を食べながら書いている。不要な情報だが、記録として記しておきたい。




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