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和む

 前回の記事で、「いつまでも若くない」という実感と向き合っていたら、であればどういう「老人」に最終的になりたいかという問いが頭に浮かんできた。
 せっかくなので、今回はこの問いについて考えてみたい。

 実はこの問いについては、ある程度自分の中で答えができている。それは、親類のおばちゃん・おじちゃんという実在の人物の姿から得たものであるとともに、ある本の一節から導き出したものでもある。

「おじいさんでも、おばあさんでも、何にもしておられないけど、その人が座っているというだけで、みんななんとなく心が落ちついてみたり、楽しくなったり、という人がおられますね。」
河合隼雄『こころと人生』創元社、P228)

 心理学者・河合隼雄の観察眼が光る。描かれているのは、老人の日常的な佇まいであるが、こういう風に言語化されなければ、そこで起こっていることの「すごさ」には気づけない。
 ここで言う「すごさ」とは何か。河合は次のように述べている。

「今のわれわれの世界は、「何かする」ことにちょっと取りつかれすぎているんじゃないでしょうか。すぐに、「あんた、何ができる」と言いすぎる。」「「これをした、あれをした」とばかり言う中で、まるっきり逆に、何もしないでいても、その「何にもしないでいる」ということがすごいというふうな、こういうことを僕らは忘れてるんじゃないかと思いますね。」
河合隼雄『こころと人生』創元社、P228)

 ただそこに座っているだけで、場が和む。「何ができるか」をアピールしなければ存在価値が認められない社会において、この老人の境地は注目に値する。
 私が理想とするのも、まさにこの境地だ。
 居間でぽつんとお茶を啜っていると、時折人が訪ねてくる。きちんとした応対をせずとも、「顔を見るだけで元気が出る」と言ってもらえる。
 これほど幸せな老後があるだろうか。ただ、これが夢物語になることはほぼ確定しており、今後はますます、「何ができるか」をアピールし、実践しなければ生きられない社会になるだろう。
 残念でならない。





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