なぜ、親鸞は越後へ流罪となったのか?──御誕生850年で振り返る「非僧非俗」の精神
山折哲雄 編
鎌倉時代には異端とされた「専修念仏」
「南無阿弥陀仏」の「南無」というのは、サンスクリット語の「ナマス」の音写で、「私は帰依します」という意味です。阿弥陀仏(阿弥陀如来)は、サンスクリットの原名(アミターバ、アミターユス)にもとづけば、「無量の光と寿命をもつ仏」になります。
したがって、「南無阿弥陀仏」と称えることは、「無量の光と寿命をもつ仏」への絶対的な帰依と信仰を表明することであり、この御仏を称嘆することになります。しかも、その阿弥陀仏は、娑婆世界から西方十万億土の彼方にある極楽浄土に住しているため、念仏とはまた、死してのち極楽浄土に生まれ変わること、つまり浄土往生を阿弥陀仏に祈り願うことでもありました。
念仏はまた、坐禅、読経、籠山、戒律護持など数ある仏教修行のうちのひとつにも位置づけられますが、他と比べるならば、それは誰もが実践できる圧倒的に簡便な修行とされます。
こうしたことを踏まえて、「真実の修行は念仏だけであり、他の行は一切必要ない」と説く教えを「専修念仏」といいます。「雑多な行をまじえず、専ら念仏の一行だけを修めよ。そうすれば浄土往生がかなう」というニュアンスで、一向念仏、一向専修などとも呼ばれます。
法難に遭った法然と親鸞
この専修念仏が、鎌倉時代のはじめ、社会に危険な異端的信仰として国家によって糾弾され、禁止されたことがありました。それは建永2年(1207)2月のことで、後鳥羽上皇の命により、専修念仏を説いていた京都の僧侶たちが捕らえられ、専修念仏禁止が通達されたのです。
12名の僧侶が処罰を受けますが、そのうち8名は流罪で、残りの4名はなんと死罪を言い渡されます。これを「建永の法難」といい、この年の10月に承元に改元されたことから「承元の法難」とも呼ばれます。
事件の背景には、新興の念仏教団を排除しようとした既成の仏教勢力(延暦寺、興福寺など)からの圧力があったとされます。また、この事件には後鳥羽上皇の私怨もからんでいたともされます。
さて、流罪となった僧侶のひとりが、浄土宗の宗祖、法然です。このとき75歳の法然は当時の念仏教団の指導者であり、摂政・関白を務めた九条兼実からも帰依を受ける高僧でしたが、土佐(高知県)へ配流と決まりました。
他の処罰を受けた僧侶もみな法然の門下でしたが、その中に当時35歳の善信房親鸞の姿がありました。親鸞は法然の愛弟子であり、師の教えに傾倒して熱心な専修念仏の徒となっていたのです。
「非僧非俗」を突き進む親鸞
親鸞の方は越後(新潟県)へ配流と決まり、僧籍を剥奪されたうえで、「藤井善信」という俗名を名乗らされることになります。そして住み慣れた京都を離れ、師や仲間たちとも別れて、流謫の地へと向かったのです。高齢の法然とはこれが終の別れとなりました。
さほど格は高くはないものの、貴族の生まれであり、かつ9歳で出家した親鸞にとって、還俗させられたうえに罪人として辺地に流されるというのは、大きな挫折であり、屈辱であったことでしょう。それでも親鸞は専修念仏を棄てることはありませんでした。
それどころか流罪中に信仰・思想をより一層深化させ、赦免されたのちも、都から離れた関東の地に留まって、「非僧非俗」(僧侶でもなく、俗人でもない)という自覚のもとに布教や著述にはげみ、他の法然の門弟たちとは一線を画して、独自の道を歩みはじめるのです。それが浄土真宗の開教へとつながっていくのです。親鸞の人生の真価が発揮されたのは、流罪以後のことだったといっても過言ではないでしょう。
──親鸞の生涯については、『親鸞に秘められた古寺・生涯の謎』(山折哲雄編、ウェッジ刊)の中で詳しく触れています。ただいま全国主要書店・ネット書店で発売中です。
◇◆◇ こちらもおすすめ ◇◆◇
「 歎異抄」は、司馬遼太郎や吉本隆明、西田幾太郎などの知識人にも多大な影響を与えた宗教書です。中世最大の宗教者であった親鸞の生の言葉を聞いていた弟子が、親鸞没後の世界にはびこる「異説」を「歎き」、正しい言葉を伝えていこうというのが基本スタイル。古今東西の多数の名著を解読してきた著者が「読んで楽しい」歎異抄の魅力を解説します。
◇◆◇ 古社寺の謎シリーズはこちら ◇◆◇