[有田焼]開国を契機に世界へ|幕末・開化期、佐賀の万博挑戦
有田の人々の目が、ふたたび海外に向いたのが幕末だった*。通商条約が結ばれて自由貿易が始まり、ジャポニスムのブームや万博への出展も相まって、有田焼は世界に返り咲いていく。
1870(明治3)年にはドイツ人技術者のワグネルが有田に招かれ、西洋の先端技術を伝えた。鮮やかな青や緑、桃色、黄色など、発色のいい西洋絵具が導入され、有田の人々の製作意欲は上がった。
幕末のパリ万博の次が、1873(明治6)年のウィーンだった。明治政府は新生日本をアピールしようと、威信をかけて大規模出展に踏み切った。
博覧会事務局の総裁は大隈重信、副総裁が佐野常民という佐賀コンビ。ただし大隈は渡欧せず、100人近い派遣団を率いたのは佐野だった。前回のパリでの経験が買われたのだ。
当然、焼物には力を入れたが、パリで茶碗や小鉢が売れなかった教訓から、あらかじめ万博向けに凝った作品が作られた。
前回は素朴な茶店を建てて、柳橋の芸者衆を登場させたが、ウィーンでは日本庭園を造り、神社風の堂々たる建物を設けた。
会期中に岩倉使節団が視察に訪れた。1年半前に横浜を出航し、欧米各国をめぐって、最後にウィーンに寄ったのだ。
彼らの目的のひとつに、幕末に結ばれた不平等条約の改正があったが、長い外遊中に成果は出なかった。当時の日本は輸入関税を決める権利もなければ、欧米人が日本で罪を犯しても、裁くこともできなかった。
欧米各国にしてみれば、ハラキリがまかり通る国に、自国民の処刑を任せられない。不平等条約改正には、まず日本が文化国家であると示さなければならなかった。
ウィーン万博で有田焼は努力がみのり、非常に高い評価を受けた。岩倉たちは、これこそが日本の技術や文化度の高さを、世界に示す好機と受け止めたことだろう。
次の万博は1876(明治9)年のアメリカ、フィラデルフィアでの開催。岩倉使節団は新政府要人の集団だけに、新政府の万博への意気込みは、さらに増した。
旅人・文=植松三十里
写真=阿部吉泰
協力=森谷美保
──万博に向けて全力を尽くした有田焼の見事な彩色は、圧倒されてしまうほどの美しさです。本誌では、なぜ佐賀藩だけが幕府の呼びかけに応じてパリ万博に挑んだのか、有田焼を生んだ佐賀の歴史、当時の日本の状況を時代小説家の植松さんが紐解きます。ぜひご一読ください。
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出典:ひととき2024年5月号