【タルマーリー】豊かな自然が生み出す発酵食(鳥取県智頭町)|ホンタビ! 文=川内有緒
朝早くから、パンが焼ける良い匂いが山間に漂っていた。元保育園という木造のかわいらしい建物に掲げられた看板には、「タルマーリー」の文字。異国情緒を感じさせるが、店主のイタルとマリコを掛け合わせた店名である。
アンティークのドアを開けると、中では数人がパンの生地をこね、オーブンからは美しいパンが次々と取り出されていく。その時私が思っていたことは、たったひとつ。
うわあ、早く食べたい!
私の心を読んだかのように、店主の渡邉格さんが「はい、どうぞ」と焼きたてを手渡してくれた。さっそくちぎってかぶりつく。独特の香ばしさともっちり感がたまらない。ありがとうございます!
今回紹介する本は、格さんと麻里子さんの共著『菌の声を聴け』。副題には「タルマーリーのクレイジーで豊かな実践と提案」とある。この「クレイジー」という表現はまったく誇張ではない。なんとここでは、野生の菌が生み出す自家製酵母を使ってパンを焼いている。そんなクレイジーなパン屋さんは、世界的にもなかなか稀である。
え、野生の菌ってなにそれ? と思う人もいるかも。なにしろ本を読む前の私もそのひとりだった。
現代のパン作りでは、イースト菌や培養された天然酵母を購入して使用することが圧倒的に多い。対してタルマーリーでは店の周囲に棲みつき、日々せっせと活動している乳酸菌や麹菌を自家採取している。
あのお、菌って自分で採れるんですか!?
「採れますよ。人類はもともとそうやってパンを焼いてきたわけだし」(格さん)
とはいえ、野生の菌の採取は簡単ではない。そこには弛まぬ試行錯誤や観察の積み重ねがあった。
「一番難しい麹菌となると、排気ガスや農薬の影響で、他のカビが混じってしまったりすることも多くて、綺麗な麹菌は年に1日、2日しか採れるタイミングがないですね」
遡ると、格さんと麻里子さんが智頭町に引っ越してきたのは2014(平成26)年のこと。もともとは千葉県で開業し、2011年の震災後には、よりよい子育て環境を求めて岡山県に移住。さらに偶然に導かれるかのように、智頭町に店を移転した。
そうやって流れついた智頭町の魅力を、格さんと麻里子さんは、「周回遅れの最先端!」と表現する。森に囲まれ、林業が盛んだった智頭町では「材木が高く売れた時代は木を切るだけで暮らせたから、観光や開発に力を入れてこなかった。おかげで暮らしのペースはゆったりしていて豊かです」(麻里子さん)
なるほど、日本全国で繰り広げられた開発の波から取り残された智頭町こそが、いまや一周して「最先端」に躍り出たというわけだ。
そうして、人間の思い通りにならない野生の菌と真剣に向き合ううちに、格さんと麻里子さんの環境やまちづくり、人間関係に関する意識も変化した。
菌との暮らしが深まっていくと、彼らの動きや喜びがわかるようになってくる。そして発酵菌をうまく呼び寄せるためには、彼らが喜ぶ自然環境を整えることが必要だと感じ始めた。以前はパン工房内の環境にしか関心がなかった私に、菌たちは、
「パン工房の外のことも考えてよ!」
というメッセージを送ってきた。そして、
「世界全体を、あるがままの姿で捉えたほうがいいよ」
と語りかけてきたのである。
つまり、豊かな里山や清らかな水、汚染されていない空気、動植物や人間が幸せに暮らす環境があるからこそ、タルマーリーのパンが生まれるのだ。
菌に学ぶ共生の思想
智頭宿を歩けば、大正・昭和時代の建物や町家が保存され、洒落たゲストハウスやレストラン、昔ながらの酒蔵が立ち並ぶ。江戸時代には参勤交代の宿場町として栄えたので、「旅行者や移住者など、外から来た人にとても優しい」(麻里子さん)
智頭宿で160年続く酒蔵・諏訪酒造に寄ってみた。人気の銘柄が並び、試飲コーナーも充実している。店頭に立つ西尾弘子さんに話を聞くと、「空気と水が綺麗な智頭町は酒造りに合っています。水が超軟水でまろやかです」と言う。
街を一歩離れると、里山が広がる。そこには澄んだ水がふんだんに流れ、森の中には、涼しく爽やかな風が吹いていた。
旅の最後に、再びタルマーリーを訪れた。そのお目当ては、ビール!
実は、格さん自身はパン職人を卒業し、現在ビール造りに邁進中! もちろん、天然の菌で発酵させた唯一無二のビールである。
パン屋さんがビール? と思うかもしれないが、「パンとビールはもともと同じ発酵のメカニズムの中で作られているんです」(格さん)
特に私が惹かれたのは、サワーエール。通常のビール製造では敬遠される乳酸菌を堂々と使い、日本酒のように生もと造りで仕込んだものだ。一口飲むと、酸味のある複雑な味わいに、「ひゃあ、なにこれ、うまい!」と声が出た。
興味深いのは、ビールに使う菌とパンに使う菌同士が工房内で助け合い、生命力が強くなっていること。おかげでタルマーリーの工房では、パン生地を仕込んでから数日間冷蔵庫で寝かせても、風味の変わらないパンが焼ける。それはまさに酵母が生き続けているからである。生地を仕込んでから数時間以内にパンを焼き上げることが常識のパン製造の世界において、これは実に革命的なことである。
「自然界では、単一の菌だけで生きているなんてありえない。いろんな菌との共生関係や競争の中で生命力の強い菌が生まれます。それは人と人との繋がりについても言えること。たとえ思想や考え方が一致しなくても、お互いに違うからこそ必要で、バランスが取れていると思うようになりました。それもまた、菌が教えてくれたことです」
私は頷きながらまたビールを飲み、本の中の素敵な一節を読み返した。
私の作り出したパンは(良くも悪くも)個性的だということだ。タルマーリーのパンを食べても、けっして万人が美味しいとは思わないだろう。美味しいと感じてくれる人はむしろ少数派かもしれない。
しかし、この個性的なパンがこの世に存在していること、それこそが多様性だ。
文=川内有緒 写真=荒井孝治
出典:ひととき2022年9月号
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