近代建築の巨匠・谷口吉郎が修学院離宮で体感した「音」の妙趣|偉人たちの見た京都
谷口吉郎は、日本の伝統美を生かした建造物を数多く設計した建築家です。主要な作品には、藤村記念堂、石川県立美術館(現・石川県立伝統産業工芸館)、東京国立博物館東洋館などがあり、日本芸術院会員や文化勲章受章の栄にも浴した、日本の近代建築界を代表する巨匠の一人です。
吉郎は1904(明治37)年に、石川県金沢市片町で、九谷焼の窯元「金陽堂」の長男として生まれました。生家は犀川大橋の近くにあり、店にはたくさんの九谷焼の壺や皿が並べられ、仕事場では職人たちが絵付けの仕事を行なう。吉郎はそんな環境で少年時代を送ります。
中学を卒業後、家業を継いで陶芸の道を選ぶか、進学かで悩んだ吉郎は、父親を説得し、地元金沢の第四高等学校に進みます。入学の翌年、1912年9月1日に関東大震災が発生。東京の建物が大きな被害を受けたことを聞き、建築に強い関心を抱くようになりました。
1925年、高い競争率を突破して、吉郎は東京帝国大学工学部建築学科に入学。伊東忠太や佐野利器の指導を受け、建築学の道を歩むことになります。25歳で東京工業大学の講師、やがて助教授になります。28歳で最初の作品となる東京工業大学水力実験室を設計。さらに慶応義塾大学幼稚舎校舎を手がけるなど、吉郎は建築家として、しだいに才能を発揮するようになっていきました。
その吉郎が若いころから通い詰め、こよなく愛した場所が修学院離宮でした。20代前半に初めて参観して以来、数え切れないほど何回も訪問し、「ひところは、春になると毎年のように、この比叡山の山裾に足を運んだ」と、1956年に刊行した自著『修学院離宮』に記していたほどです。
ゆるい傾斜を登っていくと、遠景に京都市街の人家や煙突などが小さく見え、目を転ずると、松ガ崎、山端の丘、それに続いて岩倉や鞍馬方面の山々が、山波となってはるか遠方に続く。
修学院離宮は、京都市の北東部・左京区修学院に所在する、比叡山の麓にある庭園です。江戸時代の初期、1656(明暦元)年から1659(万治2)年ごろにかけて、後水尾上皇により山荘として造営されました。緩斜面に広がる広大な敷地には、現在は3つの離宮があり、それを松並木の園路でつなぐという構造になっています。
修学院離宮、景観の独自性
修学院離宮に行くには、叡山電鉄の修学院駅から、あるいは市バスの修学院離宮道から、いずれも比叡山に向かって緩い坂道を登っていく行程になります。修学院離宮の特徴は、斜面を生かし、高さの異なる台地にそれぞれの庭園と建物を設営。周囲の山々を借景に活用し、さらに離宮内に水田を残して風景に取り入れるという点にあります。
この特徴に関して、吉郎は自著の「序説 由緒」の項で次のように論じ、修学院離宮の景観の独自性を高く評価しています。
離宮はこのような環境の中にあるがため、周囲のながめは広い。雄大な景観を庭内に収めた 「見晴らし」こそ、「修学院離宮」の大きな特色といわねばならぬ。これにくらべると、「桂離宮」は名園であるが、これほど広大な「見晴らし」を持たない。まして、京都市中の狭い寺院の庭園はなおさらのことである。あるいは地方の大名屋敷に「見晴らし」を作為した名園があっても、これに比肩し得るほどの壮大な作庭を構想し、しかも巧みに構図したものはまずいないといってよかろう。
後水尾上皇が望んだ浄土式庭園
敷地の総面積約四五五〇〇〇平方メートル(約十四万坪)。それが三つの部分に分かれ、高台に「上の茶屋」、中腹に「中の茶屋」、いちばん低い場所に「下の茶屋」と称される三つの山荘がある。その内部に、それぞれ見事な林泉と建築があって、順路がそれを連結している。
つまり、敷地の外は田畑や山林に囲まれ、三つの茶屋はそれぞれ孤立したものとなっているが、それが連絡路によって、一つの大きな庭園としてまとめられている。しかも、全体として統一され、変化に富む。この点においても「修学院離宮」の庭は、日本庭園としても、たぐいまれなものといわねばならぬ。
修学院離宮のこうした構造を考案したのは後水尾上皇でした。上皇が望んだのは武家風の庭園ではなく、平安朝文化の様式を再現した浄土式庭園であったといわれています。緑と石と水、舟遊びのできる池を備えた庭がその理想とされていました。
江戸時代中期の1734(享保19)年に離宮の庭を見学した公家の近衛家熙は、上皇が離宮のひな形まで作り、熱意をもって作庭にあたっていたと日記『槐記』に記しているそうです。
造営当初の修学院離宮は、現在、参観の入口となっている下の茶屋(下離宮)と上の茶屋(上離宮)からなっていました。1680(延宝8)年に上皇が亡くなると、訪れる皇族も稀になり、離宮も荒れ果てていきましたが、江戸中期から徳川幕府の援助で大規模な修理が行なわれ、今日見られるような姿になりました。また、中の茶屋(中離宮)は、元は上皇の皇女の御所として造営された建物と庭園を明治になってから離宮に編入したものです。
修学院離宮の真価は、音にある
では、修学院離宮の庭の見どころはどこにあるのでしょうか。吉郎はその真価について、自著の「序説 庭の足音と水音」という項で、意外な視点から説明を始めます。
この離宮の庭では、足音は歩行の楽しい伴侶となる。若やいだ足音、年老いた足音、男女の足音、そのようなさまざまな足音が小砂利にきしみながら、今もこの離宮を「下の茶屋」から「中の茶屋」を経て「上の茶屋」へと進んでいくのである。
「修学院離宮」を音楽にたとえるなら、このような「庭の足音」こそ、その作庭の第一主題だといいたい。それほど、いつもこの庭の鑑賞には、足音が余韻をひいて、耳の奥に残るのを感ずる。
小砂利を敷いた白い道は、美しい曲線を描きながら、門をくぐり、ゆるやかに傾斜を登っていく。
緑の林中には小亭があり、その前には砂庭があって、庭石が配されている。足音はそこでたたずみ、あたりをながめ、また足音を響かせながら、庭の奥に吸い込まれていく。
さらに「修学院」の山荘には、いつも水音が、さらさらと鳴っている。「遣り水」の音、池に注ぐ水の音、小川の音、滝の音、しぶきの音、水門の音、そんな水の音がいつも次々と耳に響いてくる。
ひとつの水音が絶えたときに、次の音がどこからともなく響いてきて、散策の歩調を楽しく誘ってくれる。注意しなければ気づかれないような、かすかな水音もあれば、大きな滝音となって、天空に響きわたる水音もある。あるいは近く、あるいは遠く、それが庭の空間に奥ゆきを感じさせる。しかも、その水音は、決して騒々しいものではなく、庭を清めて、人の心を庭と親密にしてくれる。
流水は町の中でも山間でも、人の耳をそばだてるのだが、この離宮の中で響いている水音は、そんな自然音とは異なる。もっと人工の思いやりをこめた音で、耳にこころよく響く。だから、「修学院」の庭ではこの人工の水音が、作庭の重要な主題となり、その演出が庭の設計に考慮されているのである。(略)
足音と水音。これらの音こそが、修学院離宮の庭園の真髄であると、吉郎は断言します。ことに水音をめぐっては、それが庭の設計において、演出として初めから考慮されたものと指摘するのです。
比叡山の麓に奏でられる音楽の如く
だから、足音が「修学院山荘」の作庭にこもる第一主題であるなら、この庭の要所々々に、流水の音を響かせている水音は、その第二主題であるといってよかろう。第一主題の「足音」によってよみがえる自己は、第二主題の「水音」によって自我の静かな周辺を認識する。「足音」は身をすこやかにし、「水音」は心を洗ってくれる。
そんな第一主題と第二主題に編曲されて、「修学院離宮」と題する造形詩が、妙なる音楽のごとく、比叡山のふもとにかなでられているのである。「下の茶屋」が第一楽章なら、「中の茶屋」が第二楽章、「上の茶屋」は第三楽章であろう。
建築界の巨匠として
建築家への道を歩んだ吉郎は、数々の文学碑、記念碑、文学館の設計に携わるほか、「明るく美しい工場」を目標に秩父セメント工場を造るなど多方面で活躍します。1960年には、池、渡り廊下、高床など平安朝の様式を取り入れた東宮御所を設計し、日本芸術院賞を受賞。建築界に大きな足跡を残しました。
また東京工業大学教授として学生を指導する一方で、歴史的な価値のある明治時代の建築物の保存の重要性を主張。第四高校時代の友人・土川元夫(当時、名古屋鉄道副社長)を動かし、愛知県犬山市に明治建築を移築した野外博物館を造る計画に奔走しました。これが現在の博物館明治村であり、吉郎は初代館長となります。
大学を退官後も多くの建築を手がけ、設計総数は200点以上にも及びます。故郷の金沢にもたくさんの作品を造り、金沢市名誉市民にも選ばれました。吉郎には文学の才能もあり、優れた著作を残しています。特に『修学院離宮』は建築家ならではの視点から、建物や庭園の造形美を流麗な文章で描いた傑作です。残念ながら絶版ですが、多くの方に読んでいただきたい本です。
あまたの業績を残した吉郎は、1979年に東京都内の自宅で亡くなりました。74歳の生涯でした。彼の墓所は金沢市の野田山墓地にあります。
出典:谷口吉郎『修学院離宮』
文=藤岡比左志
写真提供=宮内庁京都事務所
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