『方丈記』はなぜ現代に通じる最高の人生哲学なのか?
文・城島明彦(作家)
コロナ禍で注目!
世界初の災害文学
いつ終息するのか予測がつかないコロナ禍で、〝世界初の災害文学〟である鴨長明の『方丈記』に大きな注目が集まっています。
鴨長明は、鎌倉時代初期に成立した『新古今和歌集』に10首も入っている著名な歌人で、琵琶や琴の名手でもあり、家の設計もできる多芸な才人でしたが、人づきあいが大の苦手。50歳のときに出家して世間に背を向け、山中に「方丈庵」と呼ぶ狭い庵をつくって隠棲し、気ままに生きた自由人です。
そんな長明が最晩年に書いた随筆が『方丈記』で、「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という冒頭の文章は有名です。
日本文学は、ノーベル文学賞こそ2人(川端康成、大江健三郎)に過ぎませんが、世界に誇る古典がいくつもあり、『竹取物語』(作者不詳)は〝世界初のSF小説〟、紫式部の『源氏物語』は〝世界初の長編小説〟です。
鴨長明の『方丈記』も、清少納言の『枕草子』、吉田兼好の『徒然草』と並ぶ「日本の三大随筆」として高く評価されてきましたが、東日本大震災の翌年の2012(平成24)年以降、〝世界最古の災害文学〟という新たな評価が加わりました。
その年が『方丈記』完成から800年という記念すべき年だったこともあり、鴨長明にゆかりの地ではさまざまな催しが実施されました。鴨家が代々禰宜を務めた京都の下鴨神社の摂社である河合社では、境内に長明の終の棲家となった「方丈の庵」を再建したり、何社もの出版社が競うように文庫版の『方丈記』現代語訳を発売するなどしました。
そのとき人々を驚かせたのは、同書に記された「平安京を襲った推定M7.4の大震災」の生々しい記録が東日本大震災とオーバーラップする点でした。
その一部を紹介しましょう。
元暦2(1185)年に発生したこの大地震は、東日本大震災のM9.0よりは小さいものの、阪神・淡路大震災のM7.2よりも大きく、当時の平安京の人口10万人のうち4万2千人超もの人命が失われました。
『方丈記』には、鴨長明が23歳から31歳までの8年間に体験した「5つの厄災」が詳細に描かれています。5つの厄災とは、この大震災をはじめ、大火、竜巻〈辻風〉、飢饉の4つの「天災」のほか、突然の福原遷都によって生じた大混乱を「人災」とみなすなど、鋭い見方が異彩を放っています。
「一寸先は闇」の今の時代を生きる叡智
今は、どんな時代でしょうか。「不確実性の時代」という言葉が流行ったのは、アメリカの経済学者ガルブレイズの同名の書がベストセラーになった1978(昭和50)年のことでしたが、その後の時代は「不確実性」どころか、「不透明性」をも超えていたのではないでしょうか。
なぜなら、1995(平成7)年1月に起きた阪神・淡路大震災や2011(平成23)年3月の東日本大震災にしても、2019(令和2)年12月に中国の武漢市で始まったとされるコロナ禍にしても、「予測不能」としか思えないからです。
そんな時代に突発したロシアのウクライナ侵攻事件では、人々は「歴史は繰り返す」という言葉を思い浮かべ、人類の歴史が「戦争の歴史」であり、「伝染病など恐ろしい病魔との戦いの歴史」であり、「天災との戦いの歴史」でもあることを改めて認識したのではないでしょうか。
そうしたことは、今の時代に限ったことではありません。鴨長明が生きた時代の人々も、同じようなことを考えたのです。
鴨長明は、下鴨神社の神職の家に生まれ、若い頃から和歌や琵琶の演奏などが得意だったことから、禰宜の仕事には熱心ではありませんでした。父は、河合社と呼ばれている下鴨神社の摂社の禰宜からスタートして本社(下鴨神社)の最高位まで上り詰めた実力者で、長明の庇護者でしたが、若くして死去。そこから長明の人生の歯車が狂い始め、禰宜の主要ポストは一族の者に奪われ、河合社の禰宜に空席が生じたときも邪魔されて実現しませんでした。
出家するのは、その事件がきっかけです。そのとき長明は新古今和歌集の撰者として熱心に仕事に取り組んでいたので、同情した後鳥羽院が別の神社の禰宜のポストを特別に用意しますが、長明はそれを拒否し、周囲の者に「狂気の沙汰」といわれても意に介さず、けじめとして撰者を辞して頭を丸めて出家し、隠遁者として生きる道を選んだのです。
出家して山の奥深くに庵を結んで移り住んだと聞くと、ひたすら読経したり、滝に打たれたりするような厳しい修験道に励む山伏のような姿を連想する人もいるかもしれませんが、長明はそうではなく、隠棲しながら、ときには都へ出ていったり、つくった和歌を都の友人に送ったりし、気分が乗らないときは読経をさぼって、琵琶や琴を弾いて気分転換した俗っぽさを残していた点も、われわれ現代人の共感を呼びます。
長明はリモートワークやYouTuberの先駆けだった
鴨長明には〝時代の申し子〟と呼べるような一面もあります。貴族政治から武家政治へと移行する時代の転換点となった「保元の乱」の前年(1155〈久寿2〉年)に誕生し、38歳のときには頼朝が鎌倉幕府を樹立しますが、頼朝病死を受けて第2代将軍となった嫡男頼家は長明が50歳のときに暗殺。第3代将軍となった頼朝の次男実朝も長明の死から3年後に暗殺され、実権は頼朝の妻政子の実家である北条氏の手に移るのです。
長明は1216(建保4)年に62歳で没していますが、数々の先駆者としての顔もありました。まず第一に、綿密な取材に基づく生々しい描写をした〝ノンフィクションライターの先駆者〟であり、前述したように出色の〝災害文学の先駆者〟として脚光を浴びることになりますが、それ以外に次のようなマルチな生き方もしたことも見逃せません。
鴨長明が山中に結んだ住居「方丈の庵」は、5畳から6畳くらいの広さしかなく、身の回りに余計なものは置かない生活は、まさに〝断捨離の先駆者〟であり、山奥に隠棲しても都へ和歌を送ることは継続したので、いってみれば、一種の〝リモートワークの先駆者〟であり、人里離れた庵でひそかに執筆した『方丈記』を発表して一躍有名人になったところなどは〝YouTuberの先駆け〟と呼べなくもないからです。
代表作となった『方丈記』を書くきっかけは、親友の藤原雅経に誘われて鎌倉へ下向、〝歌人将軍〟として知られる源実朝と数回にわたって面談したことです。長明は創作意欲を刺激されたようで、帰京後、歌学書『無名抄』、仏教説話集『発心集』と並行して随筆『方丈記』に着手しています。藤原雅経は、蹴鞠で有名な飛鳥井家の祖で、長明の才能を見抜いて『新古今和歌集』に入れる歌を推挙するなど、いろいろバックアップしました。この人がいなかったら、『方丈記』は誕生しなかったでしょう。
今の地球に生きる私たちは、地震、暴風、竜巻、豪雨、洪水、豪雪、山火事、土石流などの天変地異におびえながら暮らしていますが、そうした生き方は『方丈記』に描かれた内容と酷似しており、時代が変わっても人の悩みや苦しみは変わらないことがわかります。
『方丈記』を長編と思っている人が多いようですが、『無名抄』『発心集』が長編なのに対し、『方丈記』は短編という点が異なります。400字詰め原稿用紙にすると20数枚程度しかないので、この際、全編を通読してみることをお薦めします。
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