諏訪大社をめぐる神話と歴史の物語|オトナのための学び旅(5)
今回取り上げるのは信濃国一之宮「諏訪大社」です。
「一之宮」とは、有力な説によると、律令体制下の日本において「国司が着任したとき、最初に訪れる神社」であり、一般的には、その国においてもっとも格式が高いとされる神社であることが多いようです。
有名どころでは、常陸国一之宮といえば鹿島神宮、安芸国一之宮といえば厳島神社があげられます。
諸説ありますが、「諏訪大明神」「お諏訪様」を祀る諏訪神社は、全国に1万を越えるといわれており、その総本社が今回訪れた「諏訪大社」です。
4つでひとつの諏訪大社
そこまで由緒正しい諏訪大社ですが、不肖馬屋原、恥ずかしながらまったく知識を持ち合わせておりませんでした。
今回の8月末の1泊2日の小旅行、もともとは長野市・松本市を歩く予定だったのです。ただ、2日目午前10時の時点で予定をすべて消化してしまったため、急遽、諏訪に寄ってみることにしたのでした。
松本駅から下諏訪駅まで、JR中央本線で約38分。その車内で馬屋原は「諏訪大社が4つに分かれている」という非常に基本的なことを知ります。
諏訪大社は、諏訪湖の南東に位置する上社(前宮・本宮)と、北岸に位置する下社(春宮・秋宮)に分かれています。上社と下社は、もとは異なる神社だったようですが、現在では「二社四宮」でひとつの「諏訪大社」です。
上社と下社の間に特に上下関係はなく、参拝順などに関するルールもありません。
上社と下社が約15km離れているという事実を前に、前日、炎天下のなか千曲川沿いを歩いて膝が痛い私の心は折れかけているわけですが、ひとまず駅から近い「下社・秋宮」に行ってみようと、最寄りの下諏訪の駅で降りました。
下諏訪駅から秋宮までは、徒歩10分もかかりません。ゆるい上り坂になっている参道を歩いて鳥居をくぐると、「青銅製の狛犬としては日本最大」の狛犬が出迎えてくれます。
台座にある「『忠孝』という字にはやはり犬が似合うよなぁ」などと、家の猫が聞いたら怒りそうなことが脳裏をよぎります。
その狛犬の先にあるのが神楽殿です。どこかで見覚えがある太い注連縄はやはり出雲式で、あとで詳しく書きますが、主祭神であるタケミナカタノカミがオオクニヌシノカミの子であることを実感させてくれます。
神楽殿の奥に幣拝殿があります。御神体はその奥にあるイチイの木(御神木)で、いわゆる「本殿」はありません。
そして境内の四隅には、「御柱祭」で知られる「御柱」が、合計4本立てられています。
「御柱祭」は、正式名称を「式年造営御柱大祭」といい、約7年に1度、「寅」と「申」の年に実施される諏訪大社最大の神事です。
4月から5月にかけて、大きなモミの木が1宮4本、合計16本、人の手によって山から運ばれ、入れ替えられます。
諏訪地域の神社では、道沿いにある小さな祠も含めて四隅に柱が建てられていることが多く、御柱祭の年は、大社に続いてすべての社で柱の入れ替えが進められるそうです。
秋宮から約1.2km歩いたところに「下社・春宮」があります。
ちなみにこの途中に、江戸時代の五街道、「甲州道中」と「中山道」の合流地点として知られる下諏訪宿があります。
地味ですが、社会科講師としては外せないポイントです。
さて、8月から1月にかけて秋宮におわす御霊代は、2月に春宮に遷座されます。
春宮の作りは秋宮によく似ており、やはり太い注連縄を配した神楽殿の奥に幣拝殿があります。御神木は杉の木のようです。
もちろん御柱も4本立っています。
記念品を求めて、上社を目指す
さて、ここで連日酷使された私の右膝はすでに限界を訴えているわけですが、公式の「四社まいりマップ」の表紙に「四社で御朱印をお受けになった方に、参拝の記念品をお渡ししております」と書かれては諦められないわけです。
1時間に1~2本しか来ない中央本線にちょうど乗れそうだったので、ひとまず下諏訪駅から2駅離れた茅野駅まで電車で移動。そこからは魔法の絨毯(タクシー)に頼ることにしました。
諏訪湖の南東側、JR茅野駅から1.2kmほど離れたところにあるのが「上社・前宮」です。諏訪信仰発祥の地ともいわれ、本殿に向かって左側には「水眼」と呼ばれる清流が流れています。
上社と下社、それぞれの神職の最高位を「大祝」と呼びます。上社で代々、この大祝を務めたのが、諏訪氏(もしくは神氏)です。
大祝は諏訪の神の依り代、現人神としての性格を持ち、幼い男の子が務めることが多かったようです。
大祝を務めている間は諏訪の地から出ることを許されない現人神が生活を営んでいたのが前宮周辺だったことから、一帯は「神原」と呼ばれています。
諏訪氏は平安時代後期から武士団の長として勢力を拡大し、神職と武士という二面性を持つ珍しい一族となっていきます。
その前宮から北西方向に約3.2km離れたところに「上社・本宮」があります。
本宮には拝殿を中心に、祈祷所となる勅願殿や家康が寄進したといわれる四脚門など、数多くの建造物が残されています。ただ、もともとあった建造物の多くは信長の兵によって焼かれてしまったとのことで、現在残されているのは、江戸時代に順次再建されたものです。
ただ、下社と同じく上社にも「本殿」は存在しません。木を御神体としていた下社に対し、上社は背後に広がる山を御神体としています。
拝所からは奥の拝殿を広く見渡すことができ、ちょうど私が訪れたときも、神職の方が祈祷をされている様子を拝見することができました。(※祈祷中は撮影禁止)
諏訪大社の神様
諏訪大社の資料によると、全体の主祭神は「建御名方神」と、その妃神とされる「八坂刀売神」です。また、下社には建御名方神の兄神にあたる「八重言代主神」も祀られています。
読みやすさを重視して「タケミナカタ」と書きますが、彼は出雲大社に祀られている大国主神の第二子とされる神です。
『古事記』によると、天照大御神が建御雷神らを遣わし、オオクニヌシに「国譲り」を迫った際、彼は判断を2人の子に委ねます。
兄のヤエコトシロヌシは承諾しましたが、弟のタケミナカタは強硬に反対。結果、タケミナカタはタケミカヅチとの力比べに敗れ、州羽海にて、この地から出ないことなどを条件に降伏を認められたとされています。
ここまではある意味「分かりやすい」ストーリーですが、諏訪一帯は良質な黒曜石の産地で、旧石器時代や縄文時代の人類の痕跡も複数残る地域です。
タケミナカタが他所から来たということは、もともとそこにいた勢力が追い出されたということになります。
伝承によると、この地を治めていた「洩矢神」と呼ばれる神が、タケミナカタとの勢力争いに敗れたことになっています。
洩矢神の後裔はタケミナカタのもとで祭礼をつかさどる一族となり、代々、諏訪氏のもとで諏訪大社上社の神長官を務めた「守矢氏」につながるとされています。
さて、上にも書きましたが、諏訪大社には「本殿」が存在しません。
上社は山(神体山)、下社は木(御神木)をそれぞれ御神体としています。本殿ではなく自然そのものを御神体としていること自体が、本来の神社のありかた、歴史の古さを示すもの、という考え方でしょうか。
その上社が御神体としている山が、上社の後ろに広がる「守屋山」です。この守屋山の頂上に「守屋神社」という神社があるのですが、ここに祀られているのが誰かというと、これが「物部守屋*」なんですね。
「ああ、そこの『もりや』がつながるんだ……」という感じですが、やはり伝承にとどまる話が多く、確たることはなかなか分かりません。
記紀の時代のはるか前からアニミズム的な信仰が広がっていた地域に、タケミナカタという神が降り、ときに水の神、ときに風の神、そして武士の時代には軍神として、「お諏訪様」は全国に広がっていったものと考えられます。
また訪れて、より理解を深めたい
今回はいきなり訪れることになった諏訪大社ですが、その歴史の古さや信仰の豊かさは、とてもではないですがここで語りつくせるものではありません。情報も言い伝えや伝承によるものが多く、一次資料に近づくだけでも大変です。
今回は二社四宮の御朱印を集めるので精一杯でしたが、もし次に来ることがあれば、今回行けなかった守屋山や、前宮と本宮の間にある「神長官守矢史料館」、200段の石段を上らないといけない北斗神社などにも寄って、より理解を深めてみたいと思います。
ちなみに四宮の御朱印をコンプリートした「記念品」も、無事にいただくことができました。
ただ、公式マップにも「記念品」と書かれているのみですので、ここで公開するのは控えます。ぜひ、皆様の足でご確認ください!
文・写真=馬屋原吉博
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