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佐藤幹夫/村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。

「日本の小説はほとんど読まなかった」という村上氏の発するメッセージ
さて、それはほんとうなのだろうか。この問いが本書の出発点であり、一つ目の目的です。

上記一文は、私が本書を手に取った理由にもあたる。

私も、村上春樹氏のこの発言に、疑問を持つ者の一人だ。

そんなはずがないのだ。読んでいないはずがないのだ。

村上春樹『ノルウェイの森』と夏目漱石『こころ』

このふたつの作品は、似ていると私は感じた。

・死を内包しながら生きる主人公

・アイデンティティの喪失

・まるで人間味のない人形のような女性(ヒロイン)の描かれ方

などが、そう考えた要因だ。

身近な人の死を目の当たりにし、生き残った人間は、それを抱え込んだまま、どの様に生きたらよいのか。

崩れたバランス関係について。

私は、それらに執着がある。

死者を全身で抱え込んでしまった人間は、易々と死ぬわけにはいかない。
生きることと死ぬこと。愛することと別れること。赦すことと赦されること。文学の基本となる主題です。
「振りをしてでも生き延びなくてはならない」


生きることと死ぬこと

愛することと別れること

赦すことと赦されること

そう、大体の純文学作品が、手を替え品を替えてはいるが、主題はこれらについて描かれている。

その答えを、境地を、知りたがっている。

これらは、私が純文学を好んで読む理由にもあたる。

志賀から太宰へ、さらには三島へ。そうやって続けられてきた作家の見えざる闘いを、いま村上春樹という作家が受け継いでいます。

言葉を媒介とし、うみだす、その身を削る様な作家たちの闘いは、止むことなく現代まで続いている。

その闘いは、村上春樹氏も受け継いでいて、

そこから、彼は日本文学めちゃくちゃ読んでるよ、という仮説を立てて、

他にも、様々な作品と村上春樹氏の作品を照らし合わせ、検証し、実証していく本書。

たまに、こじつけじゃ...と思わなくもない箇所があったりするが、著者自身が生き生きと語る姿が浮かび、何だか微笑ましい気分になる著書である。

太宰治は、名コピーライター!

もう一点、そうそう!そうだよね!と本書で共感したのは、以下一文である。

太宰の文章はときに型破りこのうえないものです。警句、箴言、詩などどんどん取り入れ、数ページにわたる行変えなしの独白など、ありとあらゆる技法を試みました。
生まれてすみません
富士には月見草がよく似合う
撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり
......いまなら名コピーライターです。
佐藤幹夫『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。』


冒頭書き出しが巧みであったり

あえて同じ末尾を、表現を繰り返したり

おかしな丁寧語を使用したり

突然詩を書き出したり

太宰治の作品は、たしかに読んでいると、「?!」と思う瞬間が多い。

いまは、___年とって、もろもろの物慾が出てきて、お恥かしゅうございます。信仰とやらも少し薄らいでまいったのでございましょうか、あの口笛も、ひょっとしたら、父の仕業ではなかったろうかと、なんだかそんな疑いを持つこともございます。
父が在世中なれば、問いただすこともできるのですが、父がなくなって、もう、かれこれ十五年にもなりますものね。いや、やっぱり神さまのお恵みでございましょう。私は、そう信じて安心しておりたいのでございますけれども、どうも、年とって来ると、物慾が起り、信仰も薄らいでまいって、いけないと存じます。
太宰治『葉桜と魔笛』
くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびじさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。
太宰治『I can speak』


ドルー・エリック・ホイットマン
『現代広告の心理技術101』

によれば、

広告はジャーナリズムではない。
起きたことを伝えるのは、ジャーナリストの仕事だ。人々に好反応を示してもらう必要はない。
大衆に情報が正確に伝わっているか、大衆が多少それを楽しんでいるか、がまず重要なのだ。
ドルー・エリック・ホイットマン
『現代広告の心理技術101』

だそうだ。

大衆を、多少楽しませる...

太宰の道化が浮かぶ。

太宰治は、やはり名コピーライターだ。

今、生きていたら、きっと引っ張りだこだろう。

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