灰色の青春、色を与えてくれたのは世拗ね人だった
“若輩者でありながら時に礼儀節度を欠いた行為から...”で始まるこの文章が、私は好きだ。
これは、私が敬愛する人物が書いた反省文である。
狂人だった、高校受験
短い人生で全力を出したといえる機会は今のところ全部で3回。そのうちの記念すべき第1回は間違いなく高校受験だ。
当時、富士山が噴火するのではないかという憶測が飛び交っていた。
その頃の私の学年順位は、10番以内に入ったり入らなかったり。
この順位で入学が妥当な高校は富士山の麓にあった。
夜も眠れないくらい噴火に怯えていた私が、本気を出すのには充分すぎる理由であった。
自宅から自転車で通うことが出来、尊敬する祖父の出身校でもある、県内で1,2を争う進学校への入学を決意した。
頼れる者は全て頼った。学力を重視する祖母に頼み込み、塾代を工面した。(祖母は桁外れの富裕層だった。)
夏期講習は、塾2校掛け持ちだ。
もう受験戦争後半は、勉強が楽しくて楽しくて仕方がない!という奇妙なテンションで送る日々。
“本気でやれば楽しくなる”という言葉があるが、これは真だ。
とはいっても、最後の最後まで教師にも両親にも心配された。
母に至っては、合格発表の日、滑り止めである私立高校の入学金を握り締めた状態で私を掲示板へ送り出した。
絶対に落ちているから、見に行きたくないのだ、と言った。ひどすぎる。
私は一人掲示板へ向かった。
名前は、あった。
あったのだが、一人なので喜びを露に出来ない。何度も確認し、間違いでないことを噛み締めてから、坂道を転がるように駆け下りた。
泣きながら。
母に告げると、握り締めていた数十万円を好きに使っていいと言った。
まず、リーガルのローファーを買ってもらった。
独特すぎるよ、進学校
よくある話だが、進学校には独特のルールが存在する。
議員、アナウンサー、作家、映画監督、芸人等、数々の著名人を輩出している、通った高校も例に漏れず、だ。
まず、高校のくせに2学期制の単位制、卒業生の多くが進学した旧制高等学校を意識し生徒による自治を実現する組織ということで自治会が存在する。
民主主義の基本原則にしたがって三権分立のしくみとし、代議委員会(立法)、執行委員会(行政)、司法委員会(司法)から成り立っている。
応援団は部ではなくホームルームから選出された者で編成され自治会の執行委員会の一部だ。
意味もなく怒鳴り散らされる独特の応援練習も存在した。
先輩という言葉は使ってはいけない。目上の人は、さん付けで呼ぶ。
自治に任されているからか、校則はゆるく、金髪もルーズソックスも何でもありだ。性も飲酒も奔放であった。(あくまでも当時の私の周りの話だ。)
下駄は生徒手帳にも記載があり、合法的に認められていた。
そんな校内において私はというと、先輩や友人には恵まれていたが、落ちこぼれ、高慢な態度の教師たち、勉強が全てだという伝統重視の考え方に辟易し何もかも放棄する日々を送っていた。
1限目から授業に参加することはほぼなく、課題も提出せず、部活動にも参加せず、唯一頑張っていたのは校則では禁止されていたアルバイトだった。
17歳、春
そんな灰色の青春時代を送っていた私に色を与える人物が現れる。
17歳を迎える年の春、全校集会の壇上では、新任教師の挨拶が行われていた。その人物は、新任のくせに考えられない位ふてぶてしい態度でそこに立っていた。
この世の憂鬱を全てかき集めて身に纏ったような、そんな人物だと思った。
もう大人な筈なのに、こんな不遜な態度を取る人物がいるのかと、ある意味感動した。気になった。
後に、彼を見た母は、“世捨て人ではなく、世拗ね人ね”と言った。
日頃は語彙力のない母だが、それは間違いないと思った。
世拗ね人は、国語教師だった。私のクラスの現代文、古文漢文を担当することになった。
彼の名は、ヤギ先生
彼の名前は、ヤギ先生。一見クールだが実は熱血だ。
居眠りをすれば教科書の角で殴られる。女だろうが容赦はない。
授業中、黒板にラーメンマンを描き始める独特の感性の持ち主でもあった。(もちろん、忠実に模写する私。)
顔はCHEMISTRYの堂珍似のイケメンだ。
現代文の授業がそれはもう上手かった。文学をどう読めばいいのか、その方法を教えてくれた。
元々読書が好きだった私は、国語の授業だけは真面目に出ていたし成績も良かったのだが、そこからさらにのめり込むことになったのは言うまでもない。
国語にも、ヤギさんにも夢中だった。
自分で言うのもなんだが、職員室で私は有名人だった。
私は知らない相手でも、相手は私のフルネームを知っている。学年が違う教師も目が合えば、「今ヤギさんは、いないぞ。」と声を掛けてくれた。
本人からは、いたってクールに全てを受け流されていた。
年賀状贈るから住所教えて、と言えば、被せて、喪中ですと言う。
先生携帯教えて、と言えば、被せて、無理ですねと言う。
それでも、優しいところもあるから、やめられない。
百人一首のテストでほぼ0点に近い点数を取った私に、学年で唯一、全首2回ずつ書き写すという鬼畜としか思えないペナルティが課された。やり抜いた時、ノートには花丸で“よく頑張りました!”と書いてあった。
鉛筆の粉で右手が真っ黒になり腱鞘炎になりかけたが、頑張って良かったと思えた。(最初から頑張れ。)
毎時間、提出用のノートにヤギのオリジナルイラストを書き添えて渡していたら、ある日そのイラストに花丸をつけて返してくれた。
感動して眠れなかった。(授業用ノートに落書きするな。明日も学校だ、早く寝ろ。)
家庭科の授業で作ったものは全て差し入れで捧げていた。偶然昼休みに会った時、おはぎ味どうでした?と聞いたら、味がなかった、と答えた。
食べたという事実に感動するとともに、砂糖を入れ忘れたことに気づいた。(味見しろ。)
置いてはいけない区画に自転車を置いた私が悪いのだが、意地の悪い教師にチェーンでガチガチに固められ、急いで帰らなければならないのに延々と怒られていた時、助け舟を出してくれた。
呆れられ諦められていたのか、質問しても他の教師は誰も教えてくれなかった時、学年担当からはもう外れていたのに、遅くまで残って付き合ってくれた。
一人進路指導室で赤本を開いていたら、話しかけてくれた。
どんなに遠くから手を振っても、控えめに手を挙げてくれた。(振り返してはいない。)
そう、彼は、誰よりも優しかった。もちろん、教師として。
彼は、いつも本を読んでいた。
図書館でよく見かけた。(OBの寄付金で建てられた立派な図書館が校内にはあった。)
大体一人だった。
今思えば、彼は彼で、進学校の、あの高校の独特の校風に、高慢な教師たちに、生意気な生徒たちに、くだらない伝統に、口うるさいOBに、辟易していたのではないだろうか。
卒業後、冒頭の彼の反省文を読んで、そんなことを考えた。
職員室は、渡り廊下の向こう側にあった。
向こう側と、こちら側。遠かった。時間が経つのが遅かった。
大人になるのが待ち遠しかった。それでいて、あっという間だった。
気が付けば、当時の彼の年齢を超えていた。
彼は今も読んでいるだろうか。
どんな本を読んでいるのだろうか。
そう、大切なことを聞き忘れていたのだ。
好きな作家は誰ですか。