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カツセマサヒコ/明け方の若者たち

「フジロック、IKEAでデート、ヴィレッジヴァンガードで待ち合わせ...同年代の筆者が描く物語、同時代を生きた者なら共感するだろう。」

というお触書を、Twitterのタイムラインで目にした。気になった。

その直後、普段からリプのやり取りをさせていただいているアカウントの方と、たまたま本の話になり、こちらの著書が話題にのぼった。

買うしかないと思った。

直後、『明け方の若者たち』の著者カツセマサヒコ氏と芥川賞『破局』の著者遠野遥氏が対談すると知った。しかも普段お世話になっているnoteの企画だった。

そして今、noteの【#読書の秋2020】というコンテストの課題本になっている。

あれよあれよという間に、出会うべくして出会った、そんな作品だと感じている。

noteのイベント企画は、『真逆のふたり?(遠野遥 × カツセマサヒコ)』と謳った対談会。

『明け方の若者たち』と『破局』は対照的な作品だ-----というところに論点を置き、若き作家同士が語り合う。

両方読んだ上で私自身も感じた、お二人の作品の、作家としての、対象的なところをあげるならば

●表紙のカラーが青、と赤

●普遍的ではない物語、と普遍的な物語

●具体、と抽象

●読者の想像力に委ねない物語、と委ねる物語

●会話「」が多い作品、と会話ではなく地の文で長回しな作品

●比喩表現の多用、とほとんど使用しない上に全く美しくはない独特の表現

●大衆文学、と純文学

こんなところだろうか。

一言で、この作品を表すならば「エモい。」

エモいは、英語の「emotional(エモーショナル)」を由来とした、「感情が動かされた状態」、「感情が高まって強く訴えかける心の動き」などを意味する日本のスラング(俗語)、および若者言葉である。
Wikipediaより

ファミマ、ファミチキ、ローソン、からあげクン、セブン-イレブン、ミニストップ、RADWIMPS、劇団四季、ヴィレッジヴァンガード下北沢店、サイゼリヤ、コンバースのスニーカー、IKEA、くるり、フジロック、BUMP OF CHICKEN、王様のブランチ、など、おびただしい数の固有名詞が登場し、

「」付きの会話、“笑”や“ムズくない?”“ごめ”など近年使われるスラング、若者言葉で、各キャラクターの感情がしっかりと吐露され(ラストの方では約1ページ半にも渡って主人公の感情がセリフで吐露される)、

読者に著者が思い描いている情景がきっちり伝わるように、これでもかというほど比喩表現が多用されている、

えらく具体的に描かれた作品である。

副業セミナーや、ノマド、フリーランス、行動が全て、など、Twitter、Facebook、SNSの世界も描かれており、

結果、ある時代の、ある場所にいる、ある年代の若者たちの群像劇という、とても限定的な作品に仕上がっている。

著者も対談で語ったように、普遍的な要素は、ない。

読者の想像力に委ねる気も、ない。

ただ、これこそが、この突き抜けたこの感じこそが、この作品の良さなのだと感じた。

そのわかりやすさは、映像として頭にイメージが出来るほどだ。バックミュージックまで思い浮かべることが出来る。

世の中には、これぐらいわかりやすい作品が必要なのだ。

大衆文学の中の、大衆文学。そう私は捉えている。

二十代、第二の青春、人生のマジックアワー

主人公の“僕”は、「面白きこともなき世を面白く」とか「死ぬこと以外かすり傷」などSNSで見かけるような格言を座右の銘に挙げるようなタイプの人間を冷めた目で見ている。

ソリューション。モチベーション。イノベーション。
リノベーション。プレイステーション。マスターベーション。

しかし、こう考えるようになったのも、“彼女”からの影響で、誰からも賞賛されるような存在になるよりも、たった一人の人間から興味を持たれるような人になろうと決めたからなのだ。

そう、彼自身も、中身は空っぽで、何者でもなく、社会に出てからも浮上する方法を見つけられないまま、妥協だらけの、こんなハズじゃなかった人生は迷走を続け、季節が過ぎるのを待っている、そんな若者なのだ。

“彼女”とは、総合商社、外資金融、大手コンサル、総合広告代理店、ITメガベンチャーなど、誰が聞いてもわかるような会社に内定を得た者が集まる「勝ち組飲み」という名がついた飲み会で出会った。

大振りなイヤリングがよく似合うショートヘア。幅の広い二重のまぶたは色気を醸し出していて、低い鼻と小さな口は、それらとバランスを取るように置かれていた。
LINEよりも手紙が似合いそうだし、パスタよりも蕎麦が似合いそうだった。スマホよりも文庫本が似合いそうな人だし、要するに、完全に僕の好きなタイプだった。

この主人公、“僕”が、置かれている状況や性格を踏まえると、絶対に好きになってしまうタイプだ。

“彼女”は

「だって、何者か決められちゃったら、ずっとそれに縛られるんだよ。結婚したら既婚者、出産したら母親。レールに沿って生きたら、どんどん何者かにされちゃうのが、現代じゃん。だから、何者でもないうちだけだよ、何してもイイ時期なんて」
「間違いだらけなのに、こうやって探そうとおもったら見つからないの、なんか人生っぽくない?」

と、妙に達観している女性だ。(この理由については、物語の後半触れられる)

これは、作中において、私が最も共感した部分でもある。

そんな“彼女”から送られてきたショートメール

「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」

の十六文字から始まった、二〇一二年から二〇一五年までの、三年半の歳月を描いた作品であり、人生のマジックアワーを描いた作品だ。

そうだったのか、あの頃は第二の青春のような時代だったのか、と気づかされた。

でも、二十三、四歳あたりって、今おもえば、人生のマジックアワーだったとおもうのよね
学生時代よりは金があるし、結婚してないから保険とかも入ってないし、頑張れば夏休みも確保できたし、体力あるから、オール明けで出勤とかも、できたでしょ
結婚すりゃ夫や妻が家で待ってるっつって飲み仲間が減るし、子供ができる頃にはローンや保険で苦しいし、子育て終わったとおもったら今度は親の介護で、全部終わった頃には、こっちの体力が残ってねーじゃん。オールで遊んで、明け方ダラダラと話して、翌日しんどいながらに会社行く。あれって若いうちしかできないことだったんだよ。

その渦中にいる間は、気がつかない。明日も明後日も1年先も、ずっとこのマジックアワーが続くと思っていた。

そもそも、当時は当時で悩みもがき、焦燥だって感じていた。

この年代が、振り返った時に美しいだなんて当時は到底思えなかった。

でも、青春なんてそんなものなのだろう。十代の青春がそうだったように、二十代の青春だって、青く甘く、時に苦しいのだ。

あまりにもストレートな表現

恥ずかしいくらいの、比喩含むストレートな表現。この多用も、もはやこの作品の魅力のひとつだ。

突如届いた彼女からの誘いは、大げさに言えば、遠い海や星を越えて届いた、奇跡の手紙のようにおもえた。
霞のように儚く、雲のように捕えようもない、何気なかったその日々を思い出すたび、火傷に触れたような、鈍い痛みが走る。
二人の夜が、下北沢に溶け出していた。
恋は盲目であり、強欲であり、純朴だ。
オーダーメイドかと錯覚するほどの存在が、すぐ横で眠っていた。
人生で一番シビアな借り物競走。
彼女の下心を僕の真心と交換することで成り立っていた三年が、なかったことにされる予感ばかりしていた。

遠野遥氏の『破局』のなかに出てくるトートバッグについての比喩表現

疲れ切って眠った犬のような印象を私に与えた

との差たるや。

これは、そのまま主人公の持つ熱量、温度の差でもあると感じ、こんなところからも感じられるとは、と面白く感じた。

大衆文学であることに矜持を

『真逆のふたり?(遠野遥 × カツセマサヒコ)』の中で、カツセ氏が語られたミスチルについての話がとても好きだ。

幼少期からずっとミスチルが好きだったので、そうすると彼らの音楽を追ってると、この人たち別に本当に好きで大衆音楽やってるワケじゃない時もあるなっていうのがカップリング曲とかで出るんですよ。本当はコッチやりたいんだろうなとかあったりしても、でもシングルカットされたりタイアップついたら絶対に1億5千人相手に歌うんだっていうのをなんか腹くくってて。一方でそれをダサイっていう評論家の方がいたりするのも当然で、バンドサウンドだったらスピッツの方がいいよねって言われたとしても、売れるもの選べるってのは強いし、で、狙って当てられるのはもっとスゴイなっていうのがあって。自分はそっちの畑で育ったというか、聴いた音楽がそうだったらそれを目指してもいいのかなっていうのは思ってましたね。

純文学も大衆文学も、それぞれに良さがあり、それぞれ必要としている人が世の中にはいる。

何が好きかは人それぞれで、誰にもそれを否定することは出来ない。

読書は航海だ。短い人生でこの世の全ての本を読み尽くすことは出来ない。

取捨選択の基準は自分自身だ。

彼の矜持を捨てない、その姿に胸を打たれた。

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