(小説)ショートカットキー覚えたら人生変わった話
「お前、まだ議事録終わってないのか?」
すいません、と唇の隙間から恐る恐る声が逃げ出した。すきま風のようにその場を冷やしたが、ぷりぷりとした先輩は依然と熱を帯びたままだ。まだ若いのに、眉間にしわが寄っているせいで老けこんで見える。
私はやることなすこと全てが遅い。物心ついた頃から察してはいた。母が私を生んだ時、私はしばらく泣き出さなかった。そのため、病室はてんやわんやの大騒動だったという。すると、「あ、忘れてた」と言わんばかりに、私は産声を上げたというのだ。私はその話を聞いて、生まれついてのスロースターターっぷりに感心した。
当年とって二十と四、もう少ししたら五が訪れる。先日、親戚の集まりで、私のことを「アラサー」と言った九才になる従弟のクソガキを、生まれてきたことを後悔させるまで擽ったのちに、私は遠い目をしてのんびり生きてきた自分を悔いた。
この年になっても彼氏もいない。魅力もなければ、合コンや、マッチングアプリするような勇気もない。
せめてもの自慢は、長年丹精込めて育て上げた、清少納言の如きさらさらの長い黒髪だが、この髪につられて言い寄ってくる男など、平安時代じゃあるまいしさらさらない。
ないものづくしの私だから、せめてないものねだりはしないよう、慎ましく慎ましく生きてきたつもりだ。ところがどっこい、”その”結果が質素倹約な”この”日々だ。
それでも私は、恋路だってただ遠い道なだけで、白きチャペルへ着実に向かっているのだと信じている。かくして私は出会うのだ。私を認めてくれる、マリアナ海溝のように深い心を持った殿方と。ゆっくりとした私の抱擁を、これまたゆっくり上から包み込み、お互い見るに見かねるにやけ顔で、二人いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
「聞いてんのか?おい!」
その突如先輩の声が彼の心臓を一突きし、彼は還らぬ人となった。
「はい!聞いておりますであります!」
しっかりしろよな。と、変な妄想のせいで、先輩にため息をつかせてしまった。
周りは、私が先輩に怒られることなど、通常運転だと言わんばかりに、いつもの時間が流れている。雑談は多いが、仕事は早いので一目置かれている私の同僚は、誰かに怒られている姿など見せたことがない。そんな彼女は、隣のパートさんと、最近近所で起こった通り魔事件の話に花を咲かせている。
思えば三年前にこの会社に入社し、メンターとして先輩が私に付けられたあの日から、怒られなかった日など、指で数えるまでもない。
男兄弟の間に生まれ、むさ苦しい世界に生きてきたことで、多少打たれ強さには自信があった。しかしそんな私でも、泣きながら飯を食べた夜を、何度過ごしただろうか。
怒られるたびにこんな自分を変えたいと思ってはいる。先輩だって何度も同じところを教えてくれる。しかし、明確な手立てもなく、日々はいたずらに過ぎるだけだった。
入社7年目の先輩は、常に営業成績トップの優秀な人材だ。身長170センチちょっとで、焦げた肌と引き締まった肉体が、まさしく体育会系といった雰囲気を漂わせる。顔もまあまあよく、仕事もできるのだが、あまりに真面目で、仕事一辺倒な性格が災いして、女性陣からの評判はあまりよくない。
この怖い顔さえなければ、けっこうかっこいいんだけどな。私は後ろの視線を恐れて、キーボードに針が刺さっているかのように、恐る恐る一文字ずつ文字を目の前の画面に刻み込んだ。
先ほど行われた会議から既に一時間近く経っている。先輩は私が書いた会議の結果を、早いとこ取引先へ送らなければならない。とはいえ彼は彼で仕事がある。それなのに、忙しい合間を縫って、わざわざ私のところまで来て悪態をついて下さる。実にありがたいことだなあ。
会議中に飛び交った難しい言葉の中訳をいれるため、Webの辞書サイトの文章をドラッグする。そして、右クリックを押そうとしたその時だった。
「ちょっと待った、お前コントロールシー知らないのか?」
「はあ、こんとろーるしーですか?」と私は気の抜けた声で答えた。
「……どうりで遅いわけだ。いいか、そのまま、右クリックしないで。コントロールキー押したまま『C』押して」
私は言われるがまま従った。
「その状態のまま、さっきのWord戻って、次コントロールと『V』押して」
あっと、私は声を漏らした。
Wordのページには打った覚えのない、先ほどドラッグした文字が魔法のように刻み込まれた。
「わざわざ右クリックしなくても、できるんだよ。次、コントロールと『Z』押してみ」
私は再びあっと口を開いてしまった。先ほど浮かび上がった文字は、一瞬のうちに消えてしまったのだ。
「今のは、一つ前の処理に戻るショートカットキーだよ」
ショートカットキーと呟くと、先輩は頭を搔きながら「作業を短縮するんだよ。ビジネスマンなら覚えとけ」と再び悪態をついて、自分の席に戻っていった。
ショートカット。
私の心に、むくむくと芽のようなものが湧いてきた。
その日から私は、「ショーカット」に心を奪われた。
「Ctrl」+「P」、「Ctrl」+「H」、「Windows」+「数字」など。パソコンでできるショートカットキーはほぼ全て会得し、作業効率を倍以上に上げることができた。
そんな私の急成長ぶりに、みんな目を丸くした。
ショートカットは「行動を減らす」ことだ。
行動が遅いのは、生まれつきでもうどうしようもない。ならば、そもそも行動自体を減らせばよかったのだ。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
やがて、ショートカットの技術は、日常生活においても応用された。いつも帰り道にコンビニに寄っていたのもやめて、数本早い電車で帰り、食事と風呂に入る時間へ充てた。
家の中の物もうんと減らして、自分ができる行動の選択肢を極力減らした。服もそこまでこだわりがなかったので、いつも黒いシャツか黒いタートルネックを着た。
かくして私は陰で「超効率人間」だとか、「エセジョブズ」だとかの異名を得たのであった。
上司に褒められることが増え、代わりに先輩に怒られることが少なくなった。というよりも、先輩は褒めるどころか、私に話しかけにすら来なくなった。よほど私を叱責することが生き甲斐とでも言うのか、ひどくつまらなそうな顔をして私の手腕を眺めていた。
少し寂しく感じ、不思議だったが、変わることができた自分に、私は確かな自信を嚙み締めた。
ある日、トイレで髪を結っていると同僚が手を洗うついでに話しかけてきた。
「あんたの髪ホント綺麗だよねえ。どうやったらそんなお手本みたいにつやつやになるの?」
「一日に玄米四号と、味噌と少しの野菜を食べる」
「何それ? まあいいや。それよりさ、先輩ってさ、あんたにだけやたら当たりキツかったじゃん? 先輩、あんたに気があったんじゃない、って噂なってるよ」
私は頬を赤く染める先輩を想像して、ぶるると体を震わせた。
「まさか、単に仕事ができないからだよ。そもそもメンターだしあの人」
「そうかなぁ、でも先輩ってさ、ちょっと少年っぽいとこあるでしょ?で、小さい頃って、好きな女の子にいじわるしちゃうじゃん」
ありえない。現に、あの人は私に一切話しかけに来てくれない。
私があまりにつまらなそうに返答するので、同僚は別の手を洗いに来た、社員の方を向いた。先ほどの話はどこへ行ったのか、先日も話していた通り魔事件の話題へ、早くもすり替えられている。もうすぐ三十になるのに、少年っぽさを称えられた先輩に、私は心の中で手を合わせた。
その日、自分の仕事を早々に終わらせた私は、手早く身支度をして先輩の方を見た。先輩はまだPCと向かい合っている。
明日は先輩と、新規の取引先へ訪問に行く。帰る前に一言挨拶しようと、私は自分から声をかけることにした。
「お疲れ様です先輩。まだ終わらないんですか?定時ですよ?」
先輩は寝起きの少年のような顔を向けて、「随分と生意気言うようになったじゃねぇか」と恨めしそうに言った。
「先輩が教えてくれたおかげですよ」と私はしてやったりの顔で返す。
先輩は少し笑みを浮かべて「まあ、仕事が早くなったのは確かだしな。……つまらねぇけどな。でも、そうやって調子乗ってる時が一番危ないんだよ。気をつけとけよ」とやっぱり私を睨んで言った。
負け惜しみだ、と私は嬉しくなり、「それじゃ、明日はお願いします」と会釈した。
先輩は何も言わず、手をひらひら振るだけだったので、私はその場を後にした。
久しぶりに先輩と話した、相変わらずな悪態に、私はどこか心地の良さまで感じていた。
陽が落ちる前の帰り道は、思わず浮足立つ。こうなったらとことんまで早く家に帰ってやろう。そう思い、普段は絶対に通らない、近道だが人気も少ない道を歩いて帰ることにした。
しかし、それが運の尽きだった。
道中の薄暗いトンネルの中に入りしばらく歩くと、前方からフードを深く被った、全身黒づくめの男が歩いてきた。
最初はただの通行人だと思っていた。
その男が、きらりと光る物体を見せてくるまでは。
——刃物?
瞬時に、同僚たちが話題にしていた事件が思い浮かんだ。
——通り魔だ。
私が足を止めたのを認めると、男は途端に速足になり、私に迫ってきた。
私は咄嗟に後ろを振り向いて走り出した。しかし、足がもつれて上手く走れない。こんな日に限って、高いヒールを履いてきたのだ。随分と滑稽な走者になっているに違いない。
男が徐々に速度を上げていくのが分かった。私の足が遅いのを見て、いよいよ本気で狙いを定めたのかもしれなかった。
沸き上がる恐怖が、喉元を締め上げて声が出ない。後ろを振り向けない。ただ、どんどんどんどん男が近づいてくるのが分かる。息が上がる。尋常じゃない冷や汗が背筋を伝う。男の走りはいよいよ全力になり、激しい足音が私を急いた。
私は唐突に色々なことを悔いた。先輩に言われた通りだった、調子に乗りすぎたんだと。
芽生えた自信が、私自身を殺すかもしれないなんて、つまらない洒落だな。追いついた男に乱暴に肩を掴まれたとき、相変わらずのん気な私はそんなことを思った。
男の刃物が、私の頭部目掛けて下りてきた。私は咄嗟に最後の力を振り絞り、男を振り解いた。男はバランスを崩したが、今度は私の髪を掴み、そのまま刃物を振り回し、私の髪を切り裂いた。
長くて艶やかな私の唯一の自慢の髪が、冷たいアスファルトに散らばる。
私は放心状態になった。
その時、前方から大きな男の声がした。
「何やってんだお前!!!!」
先輩かと思った。何故だか分からないけどそんな気がした。実際、先輩ではなかった。
たまたま通りすがった名も知らぬおじさんだった。
男は舌打ちをして、私を投げ捨て走り去っていった。
私はへたりとその場に動けなくなって、駆け寄ったおじさんの介抱を受けた。
おじさんは「あいつ追うから、ここから動かないでね!」といい、「待て!」と声を荒げながら男の後を追った。
呆然と辺りを見回して、気がつけば私は携帯を手にし、電話をかけていた。
「なんだ?仕事中なんですけど」
先輩の不機嫌な声が鼓膜を揺らす。携帯を持つ手が震えている。頭が真っ白で、声を振り絞ろうにも、何と言えば良いのか見当がつかない。
「……なんだ?からかってんなら、切るぞ」と電話を終わろうとする先輩に、私はすがるように「来て下さい」と言った。
「……どうした?」
「今すぐ、来てほしいんです。通り魔に、襲われて」
「通り魔?」と言う声と同時に、電話越しにバタバタと書類が落ちる音が聞こえてきた。
今自分がいる位置を伝えると、先輩は「すぐに行く、待ってろ」とだけ言い残し、電話を切った。先輩と私を繋いでいた唯一の電話が切れたことで、孤独はいよいよ私を蝕んだ。私はまだ立ち上がることすらできなかった。
やがて、やって来たタクシーの中から先輩が降りてきて、猛ダッシュで私に駆け寄ってきた。先輩の顔を見た刹那。忘れていたかのように、私の目から大量の涙が溢れて出た。
顔をぐちゃぐちゃにして泣いている大の大人。周辺に散らばった髪の毛。それらを見回し、先輩は私の言っていたことが冗談ではないと悟ったようだ。
「来い」とだけ言うと先輩は、私の手を引き、タクシーに投げ込んで、私の知らない街の名前を言った。
「それにしても」窓の外を見ながら先輩は言う。
「何ですか?」
「警察に連絡したか?」
「あ」
先輩は大きくため息をついた。
「俺も失態だ。こういうのはまず警察だったな」
「でも今は」と私は先輩の言葉を遮るように声を上げた。
「思い出したくないです。さっきのこと」
先輩は何も言わずに相変わらず窓の外を見ていた。
着いた場所は、どうやら先輩のアパートらしい。
先輩が部屋のドアを開けると、中から先輩の匂いがした。
「散らかってるけど気にすんな」と言ったその部屋の中は、お世辞にも確かに綺麗とは言い難い。
散らばった洗濯物を足で払い除けながら、先輩は私を部屋の真ん中に座らせた。そして自分もその場にどっかりと腰を下ろした。
「……で。どうしようか」と先輩は急に神妙な顔になった。
「どうって……?」
「いや、体が勝手に動いたんだ。とりあえず連れてきてしまったんだが、この後のことを何にも考えとらん」
ばつの悪そうに話す先輩を見ると、私は安堵が込み上げ、くつくつと笑った。
先輩も、そんな私を見て少し表情を柔らかくした。
「とりあえず、落ち着いたらタクシー呼ぶからそれで帰れ」
先輩はそう言ったが、私の脳裏には先程の光景がガンコな油汚れのようにこびりついている。
「今日、泊まってもいいですか?」と私は恐る恐る聞いた。
先輩はどこか予感していたのか、少し考えて小さく頷いた。
その時私は、そういえば先輩にも彼女がいなかったことを思い出した。
先輩は私に、寝床としてベッドを勧めたが、私は床でいいですよと言った。
しかし先輩は、女を床で寝せると、地獄に落ちる呪いにでもかかっているのか、頑なに床を譲らなかった。
仕方がないので、頂戴することにした。枕はしばらく洗っていないのか、少々お鼻につくので、慎んでベッドの脇によけた。
「お前、明日休め」
「え、でも、明日私と取引先行く予定ですよね?」
「そんなボサボサな髪じゃ、取れる契約も取れんわ」
その言葉で私は、自分の髪の毛が無惨な姿になっていることを思い出した。
何も言わず洗面台の鏡へ駆け寄り、髪の毛を確認した。
腰までまっすぐ伸びていた髪は、無残にも肩甲骨の辺りで斜めに切り裂かれている。切り口が悪いのか、毛先は無邪気に散乱していた。
鏡に映る、山姥のような女の目から、みるみる涙が溢れ出た。
先輩はそれを見かねてか、沈痛な面持ちで「すまん」と呟いた。
「明日は休め。熱出たとかでいいから。全部任せとけ。床屋行ってこい」
私は黙って頷いた。そんな状況にも関わらず、「美容院」のことを「床屋」という先輩のことを可愛いと思った。
簡単な食事を摂り、交代で風呂を済ませ、私は先輩の服を借りた。大きすぎるサイズのTシャツを着て、そういえば、こういう服も着てたなと、捨ててしまった過去の服たちを思い出した。
お互いそれぞれの布団に潜り、先輩が電気を消すと、部屋の中は死んだように静寂に包まれた。
ふと恐怖が湧き上がって来た。目を閉じると、あの男の姿が浮かんでくる。耐え切れず私は先輩の丸い背中に話しかけた。
「先輩」
「なんだ」
「来てもらってもいいですか?」
「……どこに」
「こっちに」
「……それはいかんだろ」
なんとなく予想はしてたが、先輩のくそ真面目さに少々辟易した。
するとすぐに先輩は寝息を立て始めた。正確には、寝息を立てるフリを始めた、だが。
自分から女を部屋に連れ込んでおきながら、その身一つも抱いてやらんとはどんな了見だ。私は説教を垂れたくなったが、かえって怒られそうなのでやめておいた。
それに、先輩の布団に包まれていると、不思議と安心できた。どこか懐かしい心持になる。
この気持ちは何だろうか。記憶を探ると、一人の男性に行き着いた。
——お父さんだわ。
私は三十手前の先輩と、今年還暦を迎える父の姿を重ねてしまい、何とも申し訳ない気持ちになり目を閉じた。やがて、眠れないと思っていた夜は、静かに私の意識を遠くへ運び出した。
珍妙な夢を見た。
私の脳内をそのまま切り取ったような、のんびりとした空間に私はいた。するとそこに、先輩が迷い込んだかのように、辺りを見回しながら歩いてきた。二人は、しばらくのんびりしていたが、先輩が急にすくっと立ち上がり私に手を差し伸べた。
「いくぞ」
それだけ言うと、私の手を引き、空を渡り、海を越えて、いろいろな世界を見て回った。どんな遠いところでも、先輩が教えてくれたショートカットキーを押すと、望む世界が目の前に広がった。私は、先輩の顔を見て笑った。先輩も笑った。
私の人生を、良くも悪くも変えてくれた人。悪態ばっかつくけど、なんだかんだずっと私を見てくれていた人。自分の仕事をほっぽり出して、私を迎えに来てくれた人。
私は悪態ばかりつくこの人のことを、心から好きだと思った。
次の日の朝、私は先輩に叩き起こされて、自分でも阿呆な夢を見たものだと頭を抱えた。朝ごはんをご馳走になり、味噌汁を啜ると頬がほころんだ。どうやら先輩は意外と料理ができる人らしい。
その後、仕事に行く先輩と、美容院に行く私とで分かれた。
「もう大丈夫か」
「はい、おかげさまでだいぶ落ち着きました」
「そうか」と先輩は無表情で頷いた。
「まずは、警察に届けてこい。その後気になるなら病院にも行っとけ。会社のことは何も心配しなくていいから」
これ被ってけ、と渡してくれたキャップは、私の頭にはでかすぎた。
警察へ被害届を出しに行くと、犯人は捕まったとの知らせを受けた。
私は、そういえば、恩人であるおじさんに、まだお礼が言えてないな。でも、もうあそこは通りたくない。何かのご縁でまた巡り会えたらいいなと思った。
美容室では、無残になった私の髪の毛を見ても、何も問われなかった。話題にするのも憚られるほどだったのだろう。
髪の毛は、今度こそ丁寧に、綺麗に切り落とされていった。落ちていく髪を見ながら、私は親友が旅立つかのような気持ちに包まれた。やがて清少納言のような長髪女は、まん丸頭の少女のようなショートヘアへ、変貌を遂げたのである。
次の日の朝、前日に体調を崩し、会社を休んだはずの女が、長い髪を肩までバッサリ切って出社してきたのである。案の定、社内は「婚約者に振られたに違いない」、「触らぬ神に祟りなし」と、いらん世話で持ちきりになった。
先輩にお礼を言いに行こうと近づいたが、先輩は何故か私と目を合わせようとすらせず立ち去った。話しかけても、「おう」とぶっきらぼうに言うだけで取り付く島もない。
不思議に思った私に、同僚がにやにやしながら、耳元で囁いてきた。
「先輩、めっちゃショートカット派らしいよ」
その日の定時終わり、私は帰らず、誰もいない屋上で人を待っていた。
夕焼けがビル群を、暖色に染め上げている。屋上の風は少し肌寒い。秋の訪れを感じさせる気候だ。首筋を、今まで感じたことのない冷ややかさが伝う。
長年大事に守ってきた髪を切り落とすのは、大切なものを失ったようだ。しかし同時に、かけた覚えのない鍵が外れたように、胸の中が軽くなったようにも感じた。
ただ、ショートカットにしたのは小学生ぶりだ。一体自分はどんな姿に見えているのか。自分の目では分からないので、不安で仕方ないのが正直な気持ちであった。
やがて屋上のドアが開いて、伏目がちな先輩がやって来た。私の鼓動が早まった。
「お疲れ様です」と努めて明るく言う私に、先輩は「おう」とだけ応えた。
「話ってなんだ」先輩はまだ目を合わせてくれない。
「あんなメール……。どういうつもりだ全く」
先輩が頑なに私と話そうとしないので、私は強硬手段に打って出たのである。
『今日の定時後、屋上に来てくれなければ、無抵抗な淑女を家に連れ込んだこと、メールで全社員に一斉送信致します。』
この文章を先輩宛てに、メールで送ったのである。
私にしては大胆な手だと思ったし、冗談に決まっているのだけども、先輩からは一言、『分かった。』とだけ返された。
「先輩、一昨日はありがとうございました」
「……ああ」
「髪、どうですか?」
「……いいんじゃないのか」
「可愛いと思いますか?」
先輩は頭を掻きながら、面倒くさそうに「ああ」と言った。
私はお腹に力を込めた。今だけは、ショートカットしてはいけない気がした。この時間だけは、勇気を出して、一つ一つ丁寧に刻んでいかないといけない気がした。
「先輩、わた…」
「待った!」大きな手のひらが私の目の前で開かれた。
「すまん、似合ってる、と思う」
「え?」
先輩は、不器用という泥を固めて作った土偶のようだ。
私は「何ですかそれ」と、耐え切れず吹き出してしまった。先輩は悪態を口の中に溜め込んでいるような顔をした。
心の中に一斉に花が咲いたような気がした。実は、会社の人にも何人からか、同じことを既に言われている。だけど、先輩の今の一言だけが、私の心に水をやった。
「綺麗に切ってもらえてよかったな。この前のぼさぼさが嘘みたいだ」
「先輩、この前の私はもう『コントロール』と『D』してください」
「……お前それはやめた方がいいと思うぞ」
その時、強いビル風が吹いた。心がまだ不安定な私はその大きな音に驚き、先輩にしがみついた。
ゆっくり顔を上げると、そこに先輩の黒くて丸い瞳があった。
沈黙が長いこと続いた。実際はほんの数秒だったかもしれない。しかし、私は先輩と目が合っている間、時が止まっているように感じた。
先輩が私の肩を掴む。私は全てを委ねるように、静かに目を閉じた。
「待った!!」
急に現実に引き戻されるように、私は先輩に体を離された。私がきょとんとしていると、先輩は決まりが悪そうに言った。
「こういうのは、ちゃんと付き合ってからにしよう」
「は?」
中坊かよ。ばか真面目かよ。
私は呆れたような、でも先輩らしいなとも思った。というか、もう付き合うことは決まったのかよ。ちゃんと告白くらいはしろよ。と考えようとすれば、無限にでも不満は浮かんでくる。だけど、今はしばらくしまっておいて、ここぞというときにまで残しておこう。切り札は最後まで取っておくものだ。
でも、ちょっとだけからかいたくなって、生意気な後輩は目の前の紅潮している顔に向かって、こう言った。
「こういうのはショートカットできないんですね」
「やかましいわい」
屋上の風は少し肌寒い、今まで感じたことのない冷ややかさが首筋を伝う。
そこに、大きな腕が絡んできた。初めて感じる先輩の体温に、彼の中の、太陽のような温もりを覚えた。
「先輩、好きです」
先輩はいつものように「ああ」と面倒くさそうに呟いた。
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