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2024年10月25日(金)宗磨の記録(母親の看護と介護)午後4時 鎌ケ谷訪問看護ステーションの森さんと南雲さんと今後の方針を打合せる
精神科医(特権)は頭が凄く良いタイプと極端な馬鹿に分かれる。 何故ならば医師として極めて優秀であり医師のエリートの証である内科医や外科医を十分務める能力がありながら精神を病んだ患者のために精神科医(特権)を志した崇高な医師がいる。 一方で医師として極端な馬鹿でありどの専門医も務まらない医学生が医師免許(特権)を取得してもただ医師の落ちこぼれとなって精神病院(精神神経科)へ流れていく。 そのような極端な馬鹿な医師は精神病院で心を病んだ患者をただ虐めることにより自らの立場とプライドの高さを誇り溜飲を下げていくのです。 だから精神科医(特権)には二通り存在する。 極めて優秀なキリスト医師がいる一方で極端な馬鹿のサタン医師(魔女看護士)が心を病んだ患者をただ虐待していくのです。 心を病んだ患者にとってキリスト医師が望ましいことは当然と思える。 ここでのキリスト医師は小松由布子先生(介護保険・医療保険を熱心に勧めてくれたホワイト医師)であり患者の救済を試みる。 一方で富◯先生(介護保険・医療保険の存在すら知らないブラック医師)や他の医療保護入院を賛美している医療関係者も極端な馬鹿となってサタン医師(魔女看護士)として患者を干し殺していく。 これは精神科医(特権)にあるよくある状況の一つです。 松戸ホームタウンクリニックの北野先生や女性医師、若い看護士も私の知る限りキリスト医師とキリスト信仰者と言えるだろう。 彼らはキリスト医師として医聖ヒポクラテスの直系と言える。 これが精神科医(特権)に纏わるあるある話です。 この話は知っておいた方がいいと思いますよ。 医学生が医師免許は取得したが結局どの専門医もまともにできない劣等医師が精神科医(特権)の面子という吹き溜まりへただ堕ちていく。 しかしその一方で医師のエリートの象徴である内科医や外科医を務める十分な能力がありながら精神疾患の患者を救済するために精神科医(特権)を志した崇高な医師も存在している。 この両者の違いは『キリスト教信仰』と『医聖ヒポクラテス信仰』が医師個人の信仰の在処によっている。 要はキリスト医師は本物の医師であり、キリスト教信仰を持たない医師免許取得者は真っ赤な偽物という訳なのです。 これが医師を巡る黙示録(revelation)なのです。 ※内科医も外科医もできない・・・そしてどの専門医もできない・・・結局、精神科医もできないが・・・でも精神科で精神疾患の患者に対しレイシズムで大威張りする医師免許を取得しただけの元医学生たちの群れが超危険だった。 ちば人国記 医師編 7 秋元豊 鎌ケ谷・秋元病院長 鉄格子のない精神病院 地域社会とネットワーク作り サヤエンドウ。すうっとスジをむくと横一列につややかな緑の豆が顔を出す。「家族みたいに見えるでしょう。ひととき保護して、また(社会へ)はじけていく。この病院のトレードマークです」 鎌ケ谷市初富の秋元病院は昭和六十一年、日本で初めて「家族病棟」を開設した。登校拒否、シンナー中毒、拒食症・・・・・・挫折した子どもたちが、家族とともに入院する。ここでは患者同士や、病院の職員もまた、家族の一員という考えに立つ。「心の病は、医者や薬だけが治すのではなく、失われた心の通い合いを取り戻すことから始まる」。それが精神科医・秋元豊(五二)の理念である。 秋元は思春期に心を病んだ経験を持っている。昭和一二年、東京都港区生まれ。細菌学者だった父は戦中に死亡し、一家は杉並区に移った。ただ一人の男子として、母菊枝(七八)と姉二人の愛情を一身に受けて育つ。秋元の膳だけ尾頭つきがのり、ズボンは女三人が交代でアイロンがけしてくれた。 「だんだん僕は男としてどう生きたらいいのか、分からなくなっていたのです」。区立宮前中時代から人と話すのが嫌になり、えたいの知れない劣等感にさいなまれた。陸上部では風を切って走っているときだけ”心の闇”を忘れられた。重苦しさは都立高へ進んでからも続いた。 片親だから就職口もないだろうと、医学部を志望するが、千葉大、東京医科歯科大と、ことごとく落ちて二浪する。一人で悶々(もんもん)とする秋元を救ったのが、古本屋で見つけた精神分析学者フロイトの書。「人間には自分でコントロールできない部分がある」。 精神医学との出会いだった。 二十七歳で岐阜県立医科大医学部を卒業、一年のインターン終了後、都内世田谷区の自衛隊中央病院に勤める。六年間、脳外科のメスをふるうが「どうしても精神科にひかれる気持ちを捨てきれなかった」。だが官僚組織では希望はかなわない。週に何回か千葉県内の民間精神病院にアルバイトに出かけ、外来診療を続けた。 高度経済成長期のひずみで、失業者が山谷にあふれていた時代。アルコール中毒がサラリーマンや主婦にも浸透し、大きな社会問題になっていた。秋元は根気強い治療を行ったが、家に返せば患者はまた酒に口をつけた。 そんなある日、酒におぼれていた四十代の患者がスッキリとした顔で診療室を訪れた。「先生、オレ酒やめたよ。”断酒会”に入ったんだ。先生も入らないか」。禁酒を勧める地域の自助グループが、いつの間にか彼を立ち直らせていたのだ。 ショックだった。「僕は医者としてどこか思い上がっていたのではないか」。血圧や肝機能のデータでは患者を説得できない。アル中を疾患としか見ていなかった失敗に気付いた。医療技術の効果は体に表れるが、地域や家族の力は心に表れる。老人の痴呆(ちほう)や子供の非行の問題も、そこに行きつくことが分かった。 五十二年、「診療所のような精神科を」と、松戸市に千葉県内で初の外来だけの東京神経科クリニックを開業する。が医師会仲間の反応は「精神科はそんな生やさしいものじゃない。第一町なかで通院させるなんて迷惑じゃないか」と冷ややかだった。 心の診療は問診に時間がかかるため、一日の外来も十人程度。団地の主婦のノイローゼが多かった。 仕事に行く夫を見送るだけの生活。子供が親離れするころ、心にぽっかり穴があく。「生活全体から見直さなきゃだめだ。内科も歯科もある国民宿舎のような病院をつくろう」。五十五年夏、秋元病院の創設である。 今、その病院に全国各地から、何かにつまずいた子どもたちがやってくる。金属バットを振り回して荒れる中学生や、受験を前にふさぎ込む高校生の気持ちが、秋元にはよく分かる。ヒステリックに病院へ引っ張ってくる母親、無関心な父親。子供を送り届けて帰ろうとする両親に秋元は言う。「息子さんを苦しめているのは、お父さん、お母さんにも問題があるんですよ」 鉄格子のない精神病院で、秋元は地域社会とのネットワーク作りに取り組む。「日本は何か問題が起こると、原因だけをとり除いて安心する風潮があります。医療も教育問題も家族の中の誰かを悪者にして失敗している。家族療法は家族全体を”輪”としてとらえるのです」。シンナー中毒を克服した青年が入院中の子供たちを激励に来たり、地域の自助グループが病院内で勉強会を開く。秋元の夢が、ゆっくりと根を張りつつある。(敬称略、つづく) 一九八九年十二月一九日(火曜日) 朝刊千葉県欄 毎日新聞社 https://note.com/holycatfriend/n/n70677ab713b6
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