小幡小の方へ(第一版)
1982年 中日ドラゴンズ・セリーグ優勝
第1戦は東海テレビの中継だったらしい。
解説者は西本幸雄さんと北別府さんだったらしい。
小幡小の方へ
小幡小学校を転校したのは6年生の10月25日頃だったと記憶しています。そしてそれは修学旅行の後の転校を父に宣告され、修学旅行への参加自体が温情によるものとされていたからです。本来はもっと早く転校するところを温情により旅行参加とされまた転校自体は中学校入学前にその地方の小学校へ行って知り合いを作れという父親の理解できない出鱈目によっていました。僕としては小幡小学校で卒業したかったです。
初めに入学した時の写真を今もありますが石原弘子さんというピンクのセーラー服の方と並んだ記憶があります。その時は眼鏡をかけていたのは私でその理由は実は昭和区の大栄荘と言うアパートへ住んでいる時に近所のかなり年上の男の子の振った野球のバットが右目を直撃して右目が見えなくなり、泣いて家に帰り、すぐ救急車で運ばれました。その時の怪我を治すため長く通院しました。名古屋市立大学病院へ長く通院しました。目の検査とは光を眼底に当てられたり瞼を開いたりしないといけないので決して気分のいいものではありませんでした。ただ通院を続けて失明はしませんでしたが目の虹彩が怪我の影響でしっかり閉じずまぶしさがあります。またその光の具合で右目と左目で色が違って見えます。それはその怪我以来付き纏いました。ただ今はないです。そしてその検査の際に父は目の発達の遅れを指摘され、遠視になる眼鏡をかけさせられました。遠視とは本を読むと近すぎて疲れるのです。勉強はし辛いです。守山区への引っ越しは目の保養のためには緑(木の葉などの自然)を見るのが目に良いのだという理由で引っ越してきました。
小幡小学校では様々なことがありました。一二年の時は5組で奥中郁子先生でした。最後の木造校舎を今も覚えています。あそこでも様々なことがありました。奥中先生は時々キャンディーをみんな配っていました。それが楽しみでした。僕はほとんど勉強しませんでした。当時住んでいた小林マンション105号室で同マンション101号室に住んでいた高月雄吉君と友達になり様々な遊びをしました。そこではいろいろありました。ソフトボールを自衛隊広場でやったりイベントがありました。自衛隊官舎では防衛庁の親を持つ同級生が何人もいてよく遊びました。小学校の近くにはNHK官舎もありましたね。同級生が何人か住んできました。竜泉寺へも行きましたし北山の方へもクワガタを取りに行きました。小クワガタしか取れませんでしたが数はとりました。やはりヒラタクワガタが貴重でした。ただそれをいつも見つけるの五龍神田君でした。五龍は彼が引っ越してきて友達になり、名古屋で友達の家へのお泊り会をしたのは彼一人です。その時は停電が起こり、車のバッテリーは上がり、五龍の弟直ちゃんが旅行から帰ってくるという大波乱のお泊り会でした。懐かしい思い出です。五龍は実家が広島でもみじ饅頭でした。そして僕は母の実家が新潟で笹団子でした。それをお互いに交換する土産交換の約束をして行ったりけっこう仲が良かった。ただその後彼はかなり傲慢な態度を取るようになりましたがでもギャーギャーいうけどそれなりに善い奴でした。他にも何人も知人は居ましたが遠緑地には池が多く、その中でも干上がった時の竜巻池でダムを作っているとき奇妙な尖った棘のある魚を偶然見つけそれを取ろうとしましたがその異様さに怯んでいるうちに姿を消してしまいました。それは坂口安吾の「織田信長」で若き日の信長が竜を捜して自ら池に潜るシーンがありましたがそれかなと思いました。この魚が竜なのだと思いました。お誕生日会と言うものもありました。誰を誘うのかと言う問題は人が知れる行いでした。私の知人には女の子を呼ぶこともありましたがそれは面倒を招くのでケーキと母のカレーライスぐらいでした。誕生日プレゼントで揉めたことがありました。赤い彗星のザクのプラモが二台あり、会の後に中野佳嗣(なんのん 五龍の命名)が僕に金で譲ってくれと持ちかけてきて応じました。それがプレゼントを金で譲ったと大問題になりました。ただその時に責められたのは僕だけでナンノンは責められませんし彼は僕を擁護もしなかった。僕は内心は悲しかったです。
当時のブームだったガンダムのプラモはいろんな事件を起こしました。お誕生日会の同時開催があり両方の友人だった僕は両方から誘われ窮しました。そしてどちらも出ようとしてそれがバレて大顰蹙を買いました。でも内心はそれはあまりに寛容がないと思いました。同日日の開催は迷惑でした。なんだかお互い対抗して選べとは迷惑な誕生会です。
懐かしい駄菓子屋がありましたね。バーモントという下駄で足を踏む有名なおじいちゃんがいました。もうとっくに死んだのでしょう。その他に失念しましたが中学校の近くの駄菓子屋もありましたね。
34年になり先生は東出憲二先生でした。東出先生はギターを弾き教科書とノートは学校へ置いて行けと言いグーチョキパーで手をあげていいと言いまいした。水谷豊のドラマに似ていると話題でした。僕は誰か忘れましたが同級生3人で東出先生の自宅を訪問しました。家は一軒家で綺麗でした。お金がありそうでした。ベッドには読書用のアームが付いていました。それが印象強いです。先生は守山まで車で送ってくれました。
当時の記録は「なかよし日記 S.553年1組 S.564年1組」を読んで思いましました。それを読んでいて懐かしい人が名前を失念していた人を思い出しました。スポーツ店の愛ちゃんは僕が野球部に入って親とグローブを購入するときに行きました。Zシリーズです。それは大きめの外野用でした。グローブのオイルも購入しグローブを柔らかくし型を付けるために縛り上げたりしました。その時に居たのはスポーツ屋の親と愛ちゃんが出てきてその前で購入しました。井村真由美さんも居ましたね。ただ僕は背が小さく前に居たので同じように女子で背の小さい井村さんが前に居たので覚えています。服部真弓さんは母が服部さんの母と友達で時々話題にしていました。その中で伊原真奈美さんはその後に突然消えてしまい1984の卒業文集はないです。その時の伊原真奈美さんはかなり印象深いのです。彼女とは当時読んでいたシャーロックホームズの冒険の影響で暗号解読ごっこをやった時に彼女と確か服部さんが作った暗号文のあまりの出来の良さに吃驚しました。この暗号は本当に機能しているのか?ただ伊藤真奈美さんには吃驚させられました。好きと思ってしまうくらいでした。その後彼女は消えてしまい転校されたようです。ナンノンの立会演説会は大失敗でした。敗戦の問題です。推薦人割れは酷かった。僕は立会演説会で付添人で登壇し無言をしてしまいました。何の準備もせずナンノンの思想はなく、ただマイクの前に立って・・・、どうも綺麗事は言えないな・・・でなんにもないな・・となっていきいj感が過ぎ・・結局無言演説になってしまいました。あれで推薦人割れではナンノンに悪いな・・・・。要は敗戦確実で推薦人割れを防ぐ演説はクッションだったと思います。でもそれって意味がありますか?推薦人割れを防ぐだけの演説って・・・?
5年の時は渡辺一弘先生でした。新しく来た先生で名古屋で巨人ファンを公言し野球部の顧問になりまいした。前の先生は確か井上と言いましたが厳しいが善い先生と言われていました。彼の最後の小幡担任の卒後授業でクラスの生徒が泣いたという伝説がありました。彼は去り渡辺がやってきましたがそれが崩壊を招きました。5年のクラスでは中井祐子さんは人気がありました。優しそうでおとなしくて真面目感じで・・・。ただ渡辺は野球部で勝手を遣りだしました。彼は僕にキャッチャーを遣れとかショート遣れサード遣れとかいろいろ注文を付けました。キャッチャーは吃驚しました。ただキャッチャーの危険は知りました。キャッチャーマスクにファウルチップが直撃した時の衝撃は知りました。怖かったです。ただ僕は幼稚園児のころに野球のバットで目を失明しかけた経験があり恐怖はありました。僕は本来野球バット恐怖症ですから野球は向かないのです。ただ父は野球を遣れと命じてきました。仕方なくやりました。ただ僕は野球と言うよりキャッチボールが好きだったのです。中井さんの隣の席になったことがあります。その時は流石に意識しました。ただそれを見て渡辺は「お前中井が好きなのか」と追及され窮しました。折角隣になったのに大して話さず終りました。ただ彼女の文集を読んだのですが渡辺と何かあったようですね。いろいろ贔屓と言うか特別扱いがあったらしいですね。事情は良く解りませんが・・・・。太田智子さんと言う方もいました。彼女は「ムツゴロウ王国で働きたい」と言っていました。ただ彼女が鳥山明とおねいさんが結婚したからサインあげると言った時に何故なんだろう?思いました。何故鳥山明と?それは今ネットで検索してわかりました。おねいさんは漫画家だったのですね。知りませんでした。赤堀佳代子さんついても知っています。赤堀さんはソフトボール部でした。そして野球部とソフトボール部は偶に試合をした。僕は上手くないけど一度だけソフトボール部のセカンドの股を抜ける強襲をしてホームランを打ったけどあれはエラーだと言われました。赤堀さんは三輪君がなんだか絡んで言ってきて・・。三輪君はおかしくなりましたね。子ども劇場にも参加して観劇したり子ども会へ参加していろんなイベントをしました。千代木太郎君も参加していた時期があります。村上真樹子さんも参加していました。でも一度も口を聞いたことはない人で不思議な人でした。
6年生は長谷川昌子先生です。そこは最後となりました。登校の班長になり、小林マンションに同級生が引っ越してきて厄介だなと思いました。ちょっとやばい奴でしたから・・。そいつはいろいろやってくれました。石で自動車のガラスを割る・・。明らかに彼ら兄弟の仕業です。しかし彼は石を兄に向けて投げていましたが、その石が車に当たる瞬間を見たわけではない。彼はいきなり第三者を言いだしました。その主張が通ったか知りませんが・・・。私は彼のやばさを知っていたので警戒していました。班長として厳しく行きました。彼は責任転嫁の天才です。ただそれを知らない下級生は私のやり方への不満を表明し彼の擁護をしました。ただその石で自動車の後ろのガラスミラーを割る事件の後に私の警戒は少しは下級生に理解されたと思います。私も長く小幡で暮らし様々は悪童をしてきました。別にやりたくてやったわけではなく大体の出鱈目は私の意志ではなく起こった悪行がありました。私は自分の意志で悪行を行うことはしませんでしたがやはり悪行全てを避けることは人生を生きる上で無理だと思いました。私は事故はあると思いました。ただそれは悪いことは悪い・・。間違いは悪いことは悔い改めることを必ずしていくことを誓いました。ただそれで改めていく・・行いの改めで生きて行くことは善性であろう。最高善とはこうあると思いました。小幡は竜がありただ神社ありました。
神道いろはでは、
朱色は生命の躍動を現すとともに、古来災厄を防ぐ色としても重視されてきました。このため古くは御殿や神社の社殿などに多く用いられており、稲荷神社の鳥居の朱色もこの影響によるものと考えられます。
つまり、赤色(朱色)の意味としては、
朱色が魔力・災厄を防ぐ色と考えられていた
神様のお力を高める役割りがある
と、いうことが言えそうです。
神様を高めるとは不敬である。神への冒涜である。それは神とは最高であるからです。それが一神教の理屈であり、私は神社で間違いを犯したときに神社にやられたかもしれません。
稲荷前にお住いの方は御存知だったかもしれません。
6年生で池田多佳子さんとは話したことはありませんでしたが随分真面目な方だと思っていました。ただ修学旅行の時の衣類が気になります。折角の修学旅行で池田さんの飛びぬけて地味な衣服は吃驚しました。楽しみにしていたので・・・。あの修学旅行は僕にって最後の小幡だと言われていたのでお土産をたくさん買ってしまいました。「招き猫」を二つ買いました。白の貯金箱と黒の座布団です。何故そんなもの買ったか疑問です。後で馬鹿だなと思いました。転校の不安があったのかもしれません。後で旅行の写真と文集を拝見いたしました。ただ僕は東京のお祖母ちゃんと思っていたら千葉のお祖母ちゃんだった。千葉を知らなかったのです。浦安市の舞浜から行く東京ディズニーランドは千葉だけど東京でした。僕は何回か行く機会がありました。高校の遠足でも東京ディズニーランドに行きました。ただ僕はダンボしか好きではありません。ダンボのアトラクションは善くないです。
引っ越し先では知らぬところで情報操作を受けました。そして親戚も冷淡でした。名古屋の方が善かったなと思いましたがどうしよもない現実です。ただあれから随分時が経ちました。完全に人生は終わってしまったかなと思います。
ただ病院への通院がありそしてそこで出会った心理士の方がとても素敵な方でした。それは10年以上前の話です。そこで彼女と純粋に個人的に交際しました。他は入れませんでした。ただそうすると誰かに認めさせる関係とはなりえません。お互いに心を通じているだけでした。一緒にジブリ美術館へも行き一瞬だけナウシカのことを伝えてくれました。ただそれが10年前に突然終り、そして私は自殺未遂することになり、入院の末に自宅で療養中は近所の市立体育館のジムに通い傷ついた肉体のリハビリテーションに勤めました。そしてこれからどうしようかと考えた時に僕は名古屋時代を否定され地元であり地盤であったものを失い、ただ地盤のない地元を強要され沈んでいった人生を思いました。ただ僕もそれなりに勉強はしました。ただそれを認めることはないようです。
ただ私はなんとかその心理士の方と渡りを付けることをしました。その方の名は船橋真由美さんです。ただ一筆したためある所へ渡りを付けてくれと依頼しました。
これは僕が取次ぎを依頼したある信用できる方から届いたその方の存在は確認できない旨の返信でしたが宛名はその高齢の方にはあり得ない幼さの残る字で書かれていました。そこにはその取次ぎを依頼した男性の名前で私の住所と名前宛に贈られてきたものです。
最近以前貰った手紙とハガキのジャーゴン(日本の隠語)の存在を知ることになり、それを教えてくれたのは僕にとって大切な信用できる方です。その方の贈ってくれた手紙の切手は赤字で84、NIPPON、サクラの文字、牡丹桜、日本郵便、囲いは赤、白地です。
そしてその文章は暗号文の様でしたが中身は・・・・。悪くはないが・・具体性はゼロでした。そんな感じです。ただ僕はその文章の法則を見出してみようと試みました。結局それほぼ意味のない文章の羅列でした。ただ最初の一文だけです。「大石様、お手紙ありがとうございます。」渡は付いたみたいです。10年ぶりです。
ジャーゴンと符号一致を考えています。そしてジャーゴンがわかれば符号一致の可能性は広がります。符号一致は神の暗号です。ただ暗号ではありますが真理です。符号一致の論理的説明はタロットカード(GOLDEN TAROT)であり、今研究中の隠語辞典(東京堂出版)でありギリシア神話小事典など購入しました。ただ符号一致の勉強はカール・ヤスパースが善いと思っています。
具体性のない話はどうでしょうか?その方が十年間何をされどんな人と付き合あったか・・。彼女はその人と具体的に付き合い・・私とは何もなく・・・ただなんだか卑劣な生贄にされただけの遣られ損であり、なんの意味もない人生になりました。なんでこんなに生贄にするのか解りません。いい加減にしてほしいです。
今の僕はその程度の人間です。ただ私は人を符号一致で見ていく人です。けっして貶めの生贄にしたり否定することはありません。そういうところだけ小幡の時と違っていません。同じなのはそこだけです。もう随分年も取ってしまいました。小学生のようにはいきませんね。今は研究生活をしています。ただ僕には小幡で過ごした記憶や歴史を大事にしないと自らがおかしくなるのです。自分を否定しては狂ってしまうのです。
ただ久しぶりに小幡小の方と話がしてみたくなりました。私はかなり潰れてしまいました。ただ小幡の時と変わらぬところもあります。
他にも書きたいことはたくさんあります。ここらへんで辞めておきます。蛇足が過ぎてはいけません。僕は名古屋時代に親戚と箱根へ遊びに行き、青大将を捕まえて名古屋まで連れ帰りました。飼うためです。蛇を飼うのが夢でした。そして飼ってみると何も食べません。それで困って何も食べない青大将遠緑地へ放しました。道産子ラーメンがあった方の池の近くの森の中へ放してやったら急いで逃げて行きました。あそこの青大将の一匹は僕が箱根から連れ帰りました。
P.S.
小幡小の4人の知人へこの手紙を郵送いたしました。
その内の2通は宛先場所不明で鎌ケ谷へ帰ってきました。
時がかなり経ってしまったので引っ越しされてしまったのかもしれません。
そしてそれから数年立ちますが返信は一切ありません。
読んでくれていたら嬉しいです。
僕は6年生の2学期10月25日辺りに千葉県船橋市緑台へ引っ越しました。
修学旅行の直後でした。
ただ卒業アルバムに私の文集は掲載されていません。
執筆依頼がありませんでした。
それがずっと心残りでした。
それが今回郵送したお手紙の大きな理由です。
卒業アルバムは頂きました。
私は小幡小と高根小の2つの小学校の卒業アルバムを持っています。
小幡小卒業アルバムの文集欄に私のメッセージは未掲載ですが高根小卒業アルバムの文集欄に私のメッセージは掲載されました。
私のメッセージを4学年下の下級生も読んだかも知れません。
ただ真逆に小幡小卒業アルバムに私の写真は掲載されていますが高根小卒業アルバムに私の写真は掲載されていません。
また小幡小を思い出して第二版を執筆し掲載したいと思います。
まだ第二版の構想はできていませんが・・・懐かしい小幡小を思い出すことは決して嫌な作業ではなく心救われることも多いのです。
「軒もる月」樋口一葉
カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)
「軒守る月」
軒を守る月
月やもりくる軒ばに風のおと清し。
月守宮来る軒端に風の音清し
「一手差勝負の極意」は「玄武」のことを示している。
蛇と亀は守宮(ニホンカナヘビ)を示している。
捕まりそうになると尾を自切することがあり、切れた尾が動いている間に逃げる。
これはニホンカナヘビの「一手差づくり」である。
これが玄武です。
夏油優の「無量空処」はカトリックを示し、「三対神徳」から「無下限術式」の「一手差勝ち」が生まれる。
しかし五条悟の「六眼」でも「祈本里香」と「乙骨憂太」の関係は当初解らなかったらしい。
ただ「祈本里香」は「祈る」であり「呪術師」(呪霊)の「善悪信仰」の家系であるだろう。
一方で「乙骨憂太」は「骨」(髑髏)であり「呪物」(善悪関係ない)の家系であるだろう。
ここで言えることは「祈本里香」と「乙骨憂太」の関係は「純愛信仰」ではなく「呪術廻戦」であると言える。
そして「家入硝子」と「夏油優」の関係は「純愛信仰」であるだろう。
「夏油優」とは「FISH」であり「DEVILFISH」ではない。
しかし「夏油優」は「CATHOLIC」であったため「HALLOWEEN」によって異教徒を排斥する。
「夏油優」は「カトリック信仰」を持ち「三対神徳」から「無下限術式」の「一手差勝ち」が生まれる。
「五条悟」と「夏油優」の間のラディカルな対立が「夏油優」が都立呪術高専を離脱した理由だった。
「夏油優」とは「DEVILFISH狩り」であり「座間事件」であった。
「夏油優」はT-BOLAN「マリア」のモデル(呪物)が起こした大事件と何か関わりがあったかもしれない。
「呪詛師」(善悪関係ない)とは把握された「呪物」(善悪関係ない)だった。
一方で「五条悟」は「呪詛師」(善悪関係ない)であって「HALLOWEEN」を否定し「異教徒」を容認する。
それは 「DEVILFISH」を意味している。
そして「家入硝子」は「CATHOLIC」の「愛」で「夏油優」と結ばれていたと思われる。
何故なら「夏油優」は「CATHOLIC」であり「夏油優」を治癒する「家入硝子」の反転術式は彼への「愛」でしかなかったからである。
多分「伏黒甚爾」に倒された「夏油優」を回復させために「家入硝子」は彼を「愛」によって・・・
そして父親である「伏黒甚爾」が「恵」と名付けた「伏黒恵」とは捨てられた存在とされているが「最強」とも言える。
何故なら「恵」とは「CATHOLIC」における最高の名前「GRATIA」(聖ラテン語化)を示しているからである。
禪院、五条、加茂の三つの家門は呪詛師(呪霊)の家系を示している。
呪術師(カトリック信仰)とは呪力を一切持たず「三対神徳」で形成されたペルソナ(真人)を指す。
呪術師(カトリック信仰)の代表例は「夏油優」であり「家入硝子」であり「禪院真希」だと言えるかも知れない。
その証明は「三対神徳」が「学者」の形成と同じであるからです。
「学者」とはイマヌエル・カントの指摘した「悟性的人間」「理性的人間」「学者」のあり方と言える。
マギスター・イマヌエル・カントによる
1765-1766年の冬学期講義計画公告
Mad as a March hare
「聖ラテン語化」(Libocedrus decurrens)
若者を導こうとするとき、いつもつきまとう困難がある。自分の洞察でもって年月を飛び越してしまうことが避けられないのである。つまり、本来の順序としては一層練れて経験を積んだ理性だけが理解できるような知識を、悟性の成熟を待たずに与えねばならない。いつ果てるとも知れず学校製の先入見が生まれるのはこの理由による。この先入見は並のものより頑なであるうえに、たいてい、馬鹿さ加減で上を行く。どんな自惚れよりも盲目で、無知より癒し難い若い思索家の性急な饒舌もここから生まれる。しかし、この困難をすっかり避けることはできない。この虚飾の市民社会の時代、細々とした知識は立身の手だてとなるので欠くことができなくなっているのである。本当のところ、こんなものは人生の飾り、なくてもよい美と見られるがよい。ともあれ、この点についても、公的な教育をその本来の姿に完全に一致させることは無理にせよ、それにもっと近づけることはできる。考えてみるに、人の認識は本来、こう歩む。まず悟性が形成されるが、これは、悟性が経験から直観的に判断をして、この判断を通じて概念を得ることによる。この上で、このような概念は、理性を通じて原因と結果の関係のなかで見られ、最後に学問によって、秩序ある全体のうちで見て取られるようになる。こういうわけで、指導は、これとまったく同じ道を進むべきである。教師には、自分の学生からまず悟性的人間を、ついで理性的人間を、そして最後に学者を育てることが期待されるのである。このやり方は次のような利点がある。これはふつうのことだが、たとえ学生が最後の段階にまるで到達しなかったとしても、この学生は得るところがあったのであり、学校向けにではないにせよ、人生に向けて前より練れて聡明になっているはずである。
2002年3月に開催された拓殖大学学位授与式(英米語)に於いて私は誰一人話す機会を持てなかった。
私の交友関係には全滅感が漂っていた。
僕は一人階段を降り学生ホールへ向かった。
学生ホールでは卒業祝いの「樽酒」の鏡割をした後らしく「樽酒」の神酒を卒業生に向かって愛想良く「升」に汲んで配っていた。
私は「升酒」を受取り一杯だけ飲みました。
ただその近くで侍の格好をした変わった連中が何かパフォーマンスをしていてなんだかよく解らなかったがそれが印象深かった。
私は卒業式の「樽酒」の神酒を「升酒」でいただき高尾の拓殖大学八王子キャンパスを一人後にした。
それ以来誰一人連絡してくるものはなかった。
そんなものだった。
カナヘビは尾を切って「一手差」をつくる。
月守宮は月人(竹取物語)であり菅原道真(スマートレイヤー)を示す。
軒端は家内と外界の境界を示し「信仰の入れる場」を指し示している。
イマヌエル・カントの純粋理性批判(第二版序文)
したがってわたくしは、信仰に余地を求めるために、知識を除去しなければならなかった。
風の音清しは神聖を意味する。
菅原道真の「信仰の入れる場所」は神聖である。
「信仰の入れる場所」を守る月
純愛信仰を守る月
月読命(ツクヨミ)は暦を司る神格であり決して裏切らない愛(決して覆らない愛)を示す純愛信仰である。
月読命(ツクヨミ)とすっぽん
月とすっぽん
「月守宮とすっぽん」
「玄武とすっぽん」
「最上級と最劣等」
五条悟と乙骨憂太は菅原道真の子孫である。
失礼だな、純愛だよ
乙骨憂太はリカちゃんです。
五条悟は家入硝子です。
樋口一葉「軒もる月」は純愛信仰です。
夏目漱石と樋口一葉の関係はそれが否定された純愛信仰であるなら本物の可能性があるかもしれない。
玄武は、北方を守護する、水神。
玄は黒を意味し、黒は五行説では北方の色とされ水を表す。(キリスト教)
すっぽんは亀を食肉用まで貶したあり方だった。
すっぽんは肉体の存在であって馬鹿であり最も低俗な食肉用の人工品種と言えます。
すっぽんは亀を肉体メインに交配した人工の食肉用品種であった。
すっぽんは中国にかつてあった亀を食肉として飲食する文化圏から発生した人工品種だった。
すっぽんはかなり長い年月肉体メインで交配された人工品種であるため生命力は凄いが知性や理性、学問と言った品性に関わる部分が著しく劣等化された存在だった。
人工品種ため何処でも生息できる生命力を持っているが生態系の中で調和を欠いた特異な生命体とされている。
食肉用とは肉質や繁殖力、滋養強壮に拘り抜くため頭の善し悪しを度外視して繁殖能力に長けた個体を選別する。
そのためすっぽんはかなり頭が悪く劣等な品性を持っている。
だからすっぽんは一度喰い付いたら離れない馬鹿なのです。
水神の玄武と違ってすっぽんは目先だけに拘った馬鹿亀の典型なのです。
日本ではすっぽん人間を尊び玄武の人を蔑む。
世界の中で馬鹿な日本人の典型とはこのようなすっぽんを賛美する阿呆を言います。
石田純一が典型です。
侮蔑表現としての亀(ワンパターン)
現代中国においては亀は侮蔑表現の一つとされる。中国語の最大の侮蔑語に「王八蛋(ワンパータン)」というものがあるが王八が亀を意味し中国人が守るべき八徳(仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌)を忘れるという意味の「忘八(ワンパー)」と発音が似ているため、「王八蛋」で(八徳を忘れてしまうような)愚か者、恥知らずの意味として用いられる。
これは玄武に対しすっぽんを示している。
皆さんいつでも連絡してください。
もっともっと書きたいことが多くあります。
そして私もあなたを深く愛しています。
決して裏切らない愛を貴方へ(決して覆らない愛を貴方へ)
楊梅は誇り(孤り)高く 毎日放送の二十五年
フレンドより
◯◯◯◯さんへ
文集拝見いたしました。
偶像崇拝禁止のマーク(好きな言葉)と「・印象に残った建築物・」と修学旅行の写真で◯◯◯◯さんと僕も近かったですね。三十三間堂は京の大仏様の音楽の時間に唄いました。大仏焼けてだから顔じゃないということですね。だから僕も千手観音の100体は注目していました。顔ではないです。偶像崇拝の禁止ですね。中身が美しいのは間違いや悪を悔い改める信仰によります。それが心の美しさを証明するものだと思います。北山にお住まいだとは知りませんでした。あそこはいいところですね。僕は五龍なんかとクワガタ取りに行きました。あいつはヒラタクワガタ取りの天才でした。あの辺は面白いですね。三宅んちの渡り廊下は有名でしたね。◯◯◯◯さんはあの近くでしたか?そこまで詳しくなかった。
あの大きな池は凄かったな。いつも遊んでた。王家の谷は千代木太郎とエジプト展を観に行った記憶があります。面白かった。考古学者とはおもしろいですね。フーコーの「知の考古学」ってあります。僕は「ミシェル・フーコーの講義集成」が好きです。ベルサイユ宮殿は良く解りません。バロック建築ですよね。空想と入浴とは素敵な趣味ですね。ただSホンちゃんは解りません。ホンチャンは本ちゃんですよね。Sってなんですか?
今はタロットカードと符号一致による研究をしています。ただ日本のジャーゴンは強いです。それを無視はできません。ただ僕は符号一致の人と信じて貰ってかまいません。
占術をしていますのでもし何かあればご相談ください。無料です。
◯◯◯◯◯さんへ
文集拝見いたしました。
友情と「修学旅行」◯◯◯◯◯さんとは僕の背が小さかったので運動の時や朝礼の時に前の方に並ぶので近かったですね。
三十三間堂は京の大仏様の音楽の時間に唄いました。大仏焼けてだから顔じゃないということですね。だから僕は千手観音の100体は注目していました。顔ではないです。偶像崇拝の禁止ですね。東出先生の時のイメージが強いですね。あの時にクラスに眼鏡をかけた伊原真奈美さんっていましたよね。伊原真奈美さんはすごく面白いことをいう人でした。サルゴリラチンパンジーの不思議な歌とか謎の出来の良すぎる暗号文とか睫毛を抜いて見せる吃驚行動とか・・・。女の子が何故睫毛抜くんだと今でも驚きを覚えています。不思議な人でした。不思議な会話をしてとても印象深いです。井村真由美さんはおとなしい人でしたね。あまり会話しなかったけど背が小さくて僕の男子では小さかったから近くてよく覚えています。僕は3年生の時は眼鏡をかけていたけど野球部に入ったりして眼鏡を外す許しが親から出ました。それで途中から外しました。眼鏡はガラス製で落とすと欠けたりフレームが割れたりで親に怒られて嫌で仕方なかった。外せて良かったです。あの頃は思い出深いですね。
今はタロットカードと符号一致による研究をしています。ただ日本のジャーゴンは強いです。それを無視はできません。ただ僕は符号一致の人と信じて貰ってかまいません。
占術をしていますのでもし何かあればご相談ください。無料です。
◯◯◯◯◯さんへ
文集拝見いたしました。
希望と「新しいランドセル」色白の方ですね。
希望と信仰は好きです。僕は間違いや悪い行いを悔い改めていくことに希望を持っています。その先のユーピアです。桃源郷であり水蜜桃です。
ランドセルは僕もやめてしまいました。34年の時の東出先生は道具一式を学校に置いておいていいといいました。それでランドセルではなくバックでよくなりました。それに野球部で野球の道具を入れてグローブと水筒やタオルなど入れて学校に行っていました。ランドセルは懐かしいです。
今はタロットカードと符号一致による研究をしています。ただ日本のジャーゴンは強いです。それを無視はできません。ただ僕は符号一致の人と信じて貰ってかまいません。
占術をしていますのでもし何かあればご相談ください。無料です。
◯◯◯◯さんへ
文集拝見いたしました。
努力と「六年間の思い出」最後の隣人ですね。修学旅行の集合写真でも近かったですね。
努力というのは僕はあまり無縁な生活をしてきました。気負うと全然ダメなタイプなのです。外国の騎手の言葉である「TAKE IT EASY」と考えて生きてきました。そして努力と言うよりリハビリテーションと考えてやっています。それは広岡達郎というプロ野球監督と同様です。彼は球道くん(第一巻ラッキー7)西本幸雄がモデルである。近鉄時代に応援した。小幡小へ近鉄キャップ被った時代があった。
三十三間堂の千手観音の顔は偶像崇拝の禁止だね。中身が綺麗な人がいいんだ。後姿の女の子は誰ですか?僕には解らなかった。
今はタロットカードと符号一致による研究をしています。ただ日本のジャーゴンは強いです。それを無視はできません。ただ僕は符号一致の人と信じて貰ってかまいません。
占術をしていますのでもし何かあればご相談ください。無料です。
273-0121
鎌ヶ谷市初富808-434
大石宗磨(おおしいそおま)
これはいくらか考えて書かれたものです。
QRコードリーダーは他を試すと上手くいくことがあります。
相談にはいつでも乗りますので気軽にお手紙をお書きください。
依頼はいつでもお待ちしています。
家で熟考していますので事件は退屈しません。
小幡を思い出して卒業s59 3 名古屋市立小幡小学校を眺めながら書いてみました。過去の仲良し学級の冊子やクラス写真などを見てどうも欠落した歴史を再確認したくて書いてみました。
今回はクラスの東京と東京ディズニーランドと千葉なのに東京ディズニーランドへ行きたいと書かれた方へ送っています。後は切手が趣味と書かれた◯◯◯◯◯さんへ送っています。手紙が強いでしょうからもし何か送れないトラブルがあった場合には切手趣味の方に頼もうと思います。