《毒親育ち奮闘中》『そう感じること』『そう思うこと』が受容できるようになってきた。
毒親育ちは❝感情受容❞が苦手です。
自分がどんな感情を持っても『あ、〇〇って思ったね、そうか私には〇〇って感じるんだね〜』と受け容れること。
それを❝感情受容❞といいます。
私は幼い頃から自分の持った感情を親にすら否定され続け、自分が感じたことは『何か』が分からなかったりする。
例え、私が『あ、これキライ!』と感じても『キライなんて思っちゃいけない!私にそう思う資格などない!!』と感情を押し殺してしまう。
それは、私が母に植え付けられたから。
『オマエなんかに人様をとやかく言える資格などないわぁっっ!!』と。
ただ、もうそれをトイレに流し始めた、というお話です。
アナタは身近なトイレマナーの悪い人をどうやり過ごしていますか?
私のいまの職場ではおトイレの後に手を洗わないひとがいたり、手は洗うけど水分を拭かずに手のひらをバッバッとふって水を撒き散らすひとがいる。
私は今までそれを見ては
『汚いなぁ…あ、だめだ。もしかしたら教育を受けられなかった事情があるのかもしれない。汚いなんて失礼なこと思ってはいけない』
と抑え込んでいた。
だけど、『そう感じること』『そう思うこと』を禁止すると苦しい。
うわ、何考えとんじゃと余計に腹も立つ。
だけど、たぶんああいったひとたちには悪意はない。
手を洗うことに興味がないだけだろう。
昔(?)の交際相手を一蹴したときのように、自分が『そう感じること』『そう思うこと』には自分が許可を出してあげようと思った。
便座カバーにベタベタ水滴がたれていたり、便座が汚れていると私は掃除をする。
それから自分がトイレをつかう。
……『汚い』『不潔』って思っていいんだよ。
思う、感じる、は自分で包み認めるしかない。
口に出さなければいい。
そりゃ、出来れば汚したらご自分でお片付けなさってくれたらと思ってしまう。
次の人がどんな気持ちになるかを考えてほしいと思ってしまう。
しかし他人を変えるのは難しいし、何より自分が消耗してしまう。
だから、私は自分で軽く掃除をしてから職場のトイレを使うことにしている。
心のなかでは、
『わあっ!汚っ!!』
『汚いと思っちゃうのは仕方ないよね』
『ね〜、イヤだよね〜』
『イヤになるよね』
と自分の味方になって、自分の感情に寄り添ってから掃除をする。
この『ほんっとイヤだよね〜』という自分への共感がない状態で掃除を続けることは難しいだろう。
そして、いつかは何も言わなくてもトイレマナーのいい職場になるなんて❝思わないこと❞だ。
たぶん、こちらも大切なこと。
期待しない。
他人は変えられない。
自分ができる範囲のことで、自分で対応する。
不本意な衝突を避けながらも、上手く自分の味方でいること。
なるべくストレスに真正面から向かっていかないこと。
こーゆーのが大切だと思う。
いいじゃないの。
『うわぁ…』
って思ったって。
口に出してトラブルにならないように❝思う❞に留めてるんだから。
ウンよく私はトイレ掃除は嫌いじゃない。
何だかんだ、自分の味方を自分でしてみせるさ。
そう思って頑張ってる。