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読書感想文#1 『欲が出ました』ヨシタケシンスケ


なんだかそんな気分なので、ノートに読書感想文の項目をつくってみる
ずっとスレッズにこそこそ書き溜めていたものをまずは移行作業になるけど
読んだ本を一覧で見られるようにしてうぉー!ってなりたくて

◻️まとめ


彼自身や彼の息子の日常における「欲」を切り口にしたエッセイ
章末のスケッチのみのものも深くて愛おしくて解説してほしい(これも欲だ!)

◻️所感


ゆるいほがらかなイラストと深くて真っ直ぐなメッセージのギャップにハマって、ヨシタケシンスケ作品は3つめ そしてうしろにもう1冊控えてる

まさに、ヨシタケシンスケ作品のような人になりたくて、本そのものの魅力に惹かれている気がする
飄々と流れるように生きているのに、その中に確固たる芯があり猛々しく眺めている、みたいな



「なぜうまくいかないのか。」


そもそもの持ち方がおかしいんじゃないか、大前提を疑ってみる必要があるんじゃないか。というもので
私自身今、持ち方は合ってるはずなのに!と雁字搦めになっていたけど、持ち方を変えるという選択肢を柔軟に受け入れるべきかもなーとなんとなく思った

「引力の強すぎるものには近づかないようにしています。」


影響力のある人や思想、カリスマ性のある存在やわかりやすく声の大きい手法論は引力が強いと実体験からわかっている

実際、私はそれらに意志を持って近づいてしまうタチで(アイドルのヲタクをしています)
近くなりたいがあまり、自分自身のコンパスが乱れたこともあるんだけど、じゃあ目も手も届かない場所で彼等をないものとして過ごすかといえばそれはあまりにも物足りなくておもしろくなかった

私はまだ、引力の強いものに引かれたいし、長いものに巻かれたい その引力の中でグルグルに巻かれた中で、エイッと飛び出せる準備はしておきます

「引力の強すぎるものには近付かないようにしています」②

何か強すぎるものにひかれて、そこから戻ってこない楽しみももちろんあるんだけれども、僕の場合、結局自分が自分でなくなることの恐怖っていうもののほうが、勝るんですよね。
で、そうしてまで守るべき自分って何だ?って聞かれると、大したことないから困っちゃうんですが。
でも、自分が自分じゃなくなっちゃうのかもしれない怖さみたいなものは、みんなあるよね、ということです。(p.36)

まさにヲタクに対する私の考えと近いというか
あれだけお顔が綺麗でキラキラの衣装とステージで歌って踊って見ているだけで圧倒的なパワーをくれる、そりゃあ強すぎるし惹かれる、で、引力のなすままくっついていくと、ヲタク以外の自分がいなくなっていくことに焦りと不安を抱いてしまう

コンサートに行っているとき、その準備をしている時、その思い出話をしているとき、好きなアイドルに関わること全般楽しくて大好きなんだけど、私は1人だし私がもつ時間やお金に限りがあり、性格も相まって、全振りしかねなくて、そうなったときおざなりになってしまうヲタク以外の自分を考えるとちょっとこわい

だからSNSで全ステ全部良席!ネイルもハイブラもメンカラ!みたいなそういう類の強さをみて冷静に引いてみたりする

じゃあ、そのおざなりにしたくないヲタク以外の自分ってなんだ?その観点から見る私は楽しくてわくわくしてるの?他にどんなアイデンティティを磨いて尖らせて周知させたい?となると、黙ってしまう

これ、大学生あたりからずっともやもやぼわぼわ考えてるよ

「実際にいいことがなくても、“幸せの予感”さえあればどうにかやっていける」

-現実に、幸せかどうか、満ち足りてるかどうかではなくて、この先満ち足りるかもしれないっていう予感が心の中で発動するかどうかで、実は幸せって決まるのではないかと。(略)もっと楽しいことだって起きるかもしれないって、大した根拠もなしに思えるかどうか。希望って、つまりそういうことだと思うのです。(p.45)

完全に全文同意で目から鱗落ちた・・今その落ちた鱗を集めてネックレスにしてるところ って感じです・・
今がどうか以上にその先によくなる兆しを感じられるか、が幸せに直結していると本当に思う

たとえば、手放しに大喜びできるのって「当落日よりツアー発表日」だし、「チケット発見時より会場向かう新幹線」。チケット当たるかわかんないけどツアー行ける“かもしれない”兆し、座席どこかわからないけどもしかしたら最前“かもしれない”期待のほうが、よっぽど心は元気だなーと

やっぱり人間、ないものねだりでしかなくて、でも、完全に「ない」ものはねだることさえできないから「遠くにあるけど近くにはない」ものをねだってしまうんだよなぁ
そしてねだった結果「ある」になってしまった途端、また遠くにあるけど近くにない」ものを探し出しちゃって

だから関ジャニ∞ココロ空モヨウ「まず傍にある“嬉し楽し”を一緒に数えていこう」がだいすき!

「必要なところだけじゃまなものをどける」


-世の中、みんな無意識にじゃまなものをどけながら生きてるわけです。それも最小限。たくさんどけるのは、大変だから。少ない労力で必要なところだけ、やる。(p.56)

どけるのは最小限でいいんだよな〜という自戒。じゃまなものを最小限にすることはできないけど、じゃまなものをあきらめるものとどけるものに選別して、費やすエネルギーをなるべく小さくする努力はできるはず
じゃまだと思ってそのすべてをどかそうと大きなパワーを使うのはつづかないからね、自戒です

「正しいかどうかではなく“気がすむ”かどうか」


-気がすむかどうかって、大事だなっていうことですね。(略)一回昼寝すればいいのか、一回謝ればいいのか、それで気がすむんだったらやっとこう、みたいなことですね。(p.84)

この1年、世間の言う「正しさ」みたいなものに囚われていた気がしてきたんだけど、もしかしたらそうじゃなくて、単に私自身の気がすんでなかったのかもしれない
「こうあるべき」という世間の声だと思っていたけど、「“こうあるべき”に乗っかって気をすませたい」という自分の声だったような気もして
一般論に苦しめられてるよーと思うんじゃなくて、ひとまず一般論に便乗して気がすむとこまでいきたいよーと思ってるんだーって自認できたら、こころがすこし楽になるのかも

私の行動指針も「気がすむ」までやる、でいいんだな

「まちがいには2種類ある。直した方がいいまちがいと直さなくていいまちがいだ。」


-まちがってるからこそできることとか、まちがってるからこそその人の個性になってることがたくさんある。だから、直さなくてもいいまちがいってあるよなって、ぼんやり思ってました。(p.104)

ただしさの対にまちがいがあると思うんだけど、ただしさだけじゃないことを伝えてくれたあと、その対のまちがいも肯定していて、ヨシタケシンスケさん、なんとまあ寛大なんだ!といま思った

ヨシタケシンスケさんの思うあるべき人間の姿って、ただしいとかまちがいとかじゃないんだなあ

何度だって引き合いに出してしまうけど、この1年本当に「私はどこでまちがえてしまったんだろう」と何度もなんども苦しいほどに考えては絶望的に立ち上がれなくなったいた
でも、どこでもまちがえてないし、どこかでまちがえていたとしてもそれって直さなくていいまちがいだったかもしれないなって、すこし楽観的になれた

ただしくてまちがっていて、その両方で、そのどちらでもない

「どこまでなら失敗していいですか」


就活生のとき、選考の中で挫折経験や失敗を聞かれるたび、ほんとうに思い当たるものがなくどこか良い気になっていたのを覚えている
「部活仲間との衝突」とは言ってるけど、実際心から挫折を味わったことってないんだよなーえへへ、ぐらいに

でも、社会人になった今思うのは
学生の期間にこれといった大きな挫折がないことこそがあまりにも大きな挫折だということ

ある意味何をしても許される守られている学生のうちに、自分がどこまで、何を、どんなふうにやったら失敗するのかそれを経験して学び、糧にできなかった代償はあまりにも大きかった
ちいさくまとまりすぎていたの

挫折や失敗がないのは、冒険も挑戦も足りなかった証拠で、なによりも惜しいことだと、今になって痛感している

将来、私がもっと大人になったとき
今の私に対して同じことを思いたくないから
挫折や失敗をも孕んだ冒険や挑戦を楽しみながら経験して、血肉とさせられたらな

2024.02.01

2024.02.02 誤字訂正(˘•̥⧿•̥˘ )

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