ルソー著『エミール』について(1)
ルソーは、生まれてきた5人の子どもを、次々と孤児院に入れたという、とんでもないことをしていた。
にもかかわらず、理想の教育論と言われている『エミール』の著者であるとは、どういうことだと、大きなスキャンダルとなりました。
現在のようにインターネットが発達して、誰もが発信できる社会での出来事ならば、それこそ大炎上して、袋叩きにされて、排除されていたことでしょう。
このことに関して、哲学者西研氏は、下記のように、述べています。
ルソーをボロクソに批判する人たちの影響を受けたのか、『エミール』を読むのことを、これまで躊躇してきた。そのため、まずは、西氏の解説書を読んでみることにしました。
自由な自治の社会が成立するためには、他の人の言い分もよく聞いて、自分も含めてみんなが得になるような考えを実現しようとする姿勢が必要だと述べる。
そのためには、そういう姿勢をもつ人間を育てるために、教育論である『エミール』を刊行した目的であるというわけです。
ルソーが『エミール』で課題にしたのは、「自分のため」と「みんなのため」という、折り合いにくい二つを両立させた真に自由な人間をどうやって育てるかということです。
現代の私たちは、自分のなかに自分の生き方の基準をもつ、自由で自立した人間になっているのかと、西氏は問うている。
日本の現状はといえば、
空気を読むことに必死。
個性的という言葉の意味は「空気を読めないヤツ」という婉曲な言い回しの悪口。
「俺はこれがしたい」「わたしはこれで満足だ」という、自分なりの基準をもって生きることはますます難しくなっている。
だから、250年前にルソーが提示した課題は、現代においてもまったく古びていないどころか、今、ますます重要なものになっている、と西氏は強調している。
第1章 「自然」は教育の原点である
子どもの発見
18世紀のヨーロッパでは子どもの発見は画期的なことだった。
というのは、今でこそ子どもの発達段階が常識になっていますが、このころは、子どもとは、小さな大人としか見られていなかった。
子どもの発達には段階があり、それぞれに応じたふさわしい教育があるはずだという考え方をもっとも早く述べたのがルソーだった。
ルソーによる教育の根幹は、「三種類の先生」による「三つの教育」、つまり「自然の教育」「人間の教育」「事物の教育」によって説明している。
「自然の教育」の「自然」とは、人間の内なる自然のことを意味している。子どもが手足を自由に動かせるようになるのは、人間の内なる自然によるもので、いわば自然そのものが教えてくれる、ということです。
「人間の教育」とは、親や学校の先生、家庭教師など、大人による一般的な意味での教育のことです。
「事物の教育」とは、子どもが現実のさまざまなモノやコトに出会って経験から学ぶことを意味する。
要するにルソーは、できるだけ人間本性に従った教育をせよと言うのです。これを無視すれば、子どもたちの健全な成長を歪めてしまうことになるのだと。
「自然人」と「社会人」の対立を克服する。
ルソーの教育の最終目標はどこにあるのか。それは、「自然人」と「社会人」の対立を克服することにある。
「自然人」とは、自分のために生きている存在であり、一方、人間は社会をつくって生きている「社会人」でもある。この対立関係を乗り越えようとしているのが、『エミール』という著書の大事な論点である、と言う。
具体的には、15歳くらいまでは、徹底的に「自分のために」生きる人間を育てる。そのために、他者との競争心や、他者からほめられためにがんばるという動機を完全に取り除くように環境を設定している。
15歳以降は、他者に対する思いやりや共感能力を育てる。そこから公共心、つまり、自分のためだけでなくみんなのために役立つ人間になる、というテーマが出てくる、と言う。
【こうして、読んでいくと、SNS界隈で無駄な発言を飛ばしている人たちは、ルソーのこうした教育理念にまったく大外れの教育を受けてきた、もしくは何も教育されていないというのを、つくづく感じる。ルソーから250年間、人間は退化しつつあるのだろうか】
子どもが「自然の道にとどまる」つまり本来の発達の道を歩んでいくための四つの格率(規則)を設定している。
第一の格率
自然に与えられた子どもの力を十分に発揮させること。第二の格率
肉体的・知性的な必要を、養育者が助けてあげること。第三の格率
必要なことだけに限って助け、気まぐれや理由のない欲望には何も与えないようにすること。第四の格率
子どもを注意深く観察し、直接に自然から生じる欲求と臆見から生じるものとを見分けること。
臆見とは、自然でほんとうに内的な欲求と、そうでないものとを養育者の側が見分けなくてはならないということです。
現代の発達論からみて、大事な論点を下記のように付け加えています。