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仲正昌樹(著)『現代哲学の最前線』 読書メモと呟き

竹田青嗣 (著)『意味とエロスーーー欲望論の現象学』より引用する。
ここでデリダが見ているのは、現象学においては〈意味〉と〈記号〉の〈一致〉の根拠が示されているが、それはあの〈客観〉ー〈主観〉の〈一致〉を図ろうとする「形而上学の歴史」と重なり合っている、ということだ。〈意味〉、〈現前〉、〈現実〉は、〈記号〉、〈再現〉、〈認識〉と〈一致〉する。それは、伝統的な認識問題に立ち戻り、これを根拠づけることになる。だが、〈現実〉そのものとは、すでに〈言葉〉でなかったか。デリダはこういったパラドックスを現象学に向けて投げかける。(中略)フッサールの現象学は、むしろ〈現実〉と〈言葉〉という対立項が生むパラドックスを、解きほぐすものなのである。現象学において存在客観は〈存在妥当〉の問題に移された。これと同様、意味客観は、いわば〈意味妥当〉という地平に移される。(中略)〈私〉といっしょにコーヒーを飲んだ友人がいるとしよう。彼がコーヒーをまずいと思ったとすれば、彼は〈私〉の言葉を嘘ととるかも知れないし。〈私〉がこんなまずいコーヒーをおいしいと思っているのか、ととるかも知れない。つまり「聞き手」からは、言表の客観的な真偽ははじめから問題になっていない。彼は、〈私〉に経験(意味賦活)があり、それに対応して言表(意味充実)がなされたことを知っている。そのために彼は、彼の内部で、この言葉から〈意味〉を汲もうとするのである。 
(引用終わり)

デリダが問題にしているエクリチュール(書かれた言葉)に関しても、読み手が受取るのは、作者が言わんとすることを推測し、作者は、こんなことを言っているだろう(か)とか、よく意味が判らないといったことが生じる。ここでも、〈意味〉があるとか、〈意味〉が判らないとかいったことが生じるのは、言表が客観的に一致するか否かということではなく、〈意味賦活〉(言わんとすること)と〈意味充実〉(その言表がある)という相関構造においてである。
 つまり、フッサールが言っているのは、デリダの主張とは違って、言葉の〈意味〉は、その根源的な現前に〈一致〉する、ということは決してない。およそ〈意味〉が生じるということの根拠は、人間の生のさまざまな事態に意味志向を投げかけており、この意味志向との対応として記号を用いることのうちにある、こう彼は言っているのである。デリダの現象学批判も竹田青嗣のデリダ批判も難解すぎて、中々腑に落ちるということにはならないが、大筋として、竹田青嗣のフッサール理解の方に分があると考えている、しかしながら、現代思想の主流はデリダ側のようである。

仲正昌樹氏は、種々の哲学の入門書を発刊していて、影響力のある人と思っているが、私が調べた範囲では、フッサールの入門書を見つけることはできなかった。竹田青嗣氏は、デリダ批判をしていても、誰もデリダを擁護する書を見たことがない、と主張している。『現代哲学の最前線』という本を出版するからには、竹田青嗣氏のデリダ批判には、触れるべきではないだろうか。竹田青嗣氏のデリダ批判を全面的に受入れているというわけではないが、かなり納得しているだけに、デリダの解説をしているのならば、デリダ批判についても、論理的な解説を行うべきかと思う。単に無視しているということなのでしょうか。千葉雅也(著)の『現代思想入門』でも、現代思想の源流として、ニーチェ、フロイト、マルクスの解説はあっても、デリダの師匠にあたるフッサールの解説は皆無だった。つまり、フッサールはデリダの師匠ではあっても、現代思想の源流と見なしていないという証左でもある。こうした哲学書の啓蒙書を発刊するレベルの人たちが、竹田青嗣氏のデリダ批判に対する何らか納得のいく反論を示さない限り、こうした人たちを信頼することができない。哲学については、約5年前に、放送大学の講義を聴くことから始めた。年齢のことがあり、紙の本を読むのが辛くなったためでもあった。特に『現代フランス哲学に学ぶ』を聴いていたこともあって、ベルクソン、フーコー、ドゥルーズ、リクールを好んで聴いていた。ところが、最近になって、竹田青嗣(著)『哲学とは何か』では、上記にあげたフランス哲学者及びデリダなどを、フッサールの現象学に基づいて、ことごとく批判していることに、驚いた。これでは、もはや、ここ当分フッサールしか勉強するしかないのかと、ため息が出た。竹田青嗣氏の弟子にあたる、苫野一徳氏は、若い時、竹田青嗣の著書を読んだ後、それまでに彼が築きあげたと自負していた哲学体系が、ガラガラと崩れてしまい、しばらく鬱状態になった、と述べていた。それから、竹田青嗣の哲学を学びなおしたそうです。私の場合は、退職した老人のヒマつぶしで、哲学を少しばかり、かじっている程度なので、ガラガラと崩れ落ちるといった大げさなものではないが、私なりの、衝撃感はあった。これまでに、作成していた読書メモは、ほとんど、竹田青嗣氏の目線で見直しているが、完璧に理解して読書メモを作ったわけではないので、別の目線を加わえて読むというのは、自分の能力を超えていて、キツイ作業ではある。しばらく、頭が混乱することさえある。しかしながら、以前理解できなかったことが、理解できたという嬉しさもあるので、これを励みとして、noteへの投稿は、できるだけ、継続していくつもりです。


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