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キャリアデザインと精神分析

いまやキャリアデザインは大学における学問の一端を担うようになりました。キャリア教育を専門とするさまざまな教員や研究者たちが、さまざまな論文を書いて発表しています。また、それらに基づいた大学の授業で使う教科書も、さまざま出版されています。

ところで、研究者たちが最も苦手としてるのが、キャリアデザインにおける最初のステップである自己分析、自己理解だと僕は考えています。

「自己理解」以降のキャリアをデザインをする方法論に関しては、その素人である僕にも、高い蓋然性をもって理解できるのですが、自己理解はどうしても浅く感じてしまうのです


なにが浅いかといえば、まだ言語化されていない心の領域に気づいていない点が浅いのです。


キャリアデザインは文科省が認める一つの学問領域になっているので(そして文科省はアメリカ式の合理的な人間を量産したいと考えているので)、意識化されている情報を集めて、それを効率よく並べて、ひとつの思想体系として(あるいは就職のための手続きの体系として)成立しています。


それはそれでいいのですが、どうあれ、私たちの心には、まだ言語化されていない未知の領域、夏目漱石風に言い換えれば「不可思議な恐ろしい力」が組み込まれています。


そして、そこにこそ、あなたの人生の使命とか、転職とか、目指すべき道とかがあります。
あるいは、努力してもその職業に就けないつけなさをもたらすのが、その謎の存在者Xです。


つまり、今言語化できることだけに基づいてキャリアを形成しようとすると、それはきれいな絵に描いた餅になりますが、じつは私たちの人生はそれだけで構成されているわけではないということです。


たとえば、ある日突然、無性に誰かと性行為をしたくなったことをきっかけに、残業の後、足繁く風俗店に通うようになった。やがてキャッシングしてまで風俗店に通うようになり、会社でやっと課長に昇進したものの、その借金がもとでキャリアを完全に失った。


こういうケースは、ある日突然、なぜか性行為をしたくなったという気持ちが原因ですが、ある日突然なぜか性行為をしたくなるというのは、心の中の言語化できていない領域、すなわち不可思議な恐ろしい力、謎の存在者Xが、その人をそのように操ったということです。


無意識という言葉はあまり適切ではないと思いますが、わかりやすく言うなら、無意識がその人を操った結果、せっかくデザインしたキャリアが全部パァになったということです。


つまり、キャリアデザインにおけ自己理解というのは、まだ言語化されてない心の領域をよく見つめ、それを少しずつ丁寧に、ゆっくりと言語化してあげるというところから始まるのです。


もっとも、キャリアデザインの教員や研究者たちは精神分析家ではないので、そんなところまで教えないと思いますし、教えることができないと思います。

しかしどうあれ、私たちが言語化したものは意識の表層にすぎず、その奥にあなたを操る不可思議な恐ろしい力が存在しているという謙虚さを持っておくことが重要なのではないでしょうか。


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