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シューベルト「死と乙女」弦楽四重奏✕森山開次ライブパフォーマンスで生と死の新たな気づきを得る
いつか生で見たいと思っていた森山開次氏のダンスパフォーマンス、一夜限りで渋谷のさくらホールで行われるのを昨年見つけ、即チケットを購入していた。新年の楽しみだったが、ありきたりな言葉だけど、期待以上の感動が続いている。
シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」を気鋭の若手演奏家が演奏する舞台で、森山開次氏が舞うというもの。
死とは恐怖か、それとも永遠の安息か。
作曲したシューベルト自身も若くして亡くなるのだが、この曲は自身の歌曲「死と乙女」をベースとした楽章を含む、晩年に作曲した弦楽四重奏曲だ。
薄暗い舞台中央には楽器と譜面と演奏者、そして後方にはまるで宗教画のためのキャンバスのような、あるいは白いシーツをかけた病床のような、白色の四角だけが浮かび上がる。舞台には他に所々に配された白いユリと花だけがある。
森山開次氏がその白色の四角の前で腕を持ち上げて静止すると、まるで横たわっているように見えるから不思議だ。彼の衣装はチュールスカートにコルセットのように見えるが、乙女だけでもないとても中性的な装い。胸に無造作に塗られた黒色は、一緒に行った娘には、ユリの花が描かれているように可変的に感じられたらしい。
舞台で繰り広げられるパフォーマンスは曲とともに時に恐怖や憤りを感じる動きもあれば、自由さや優しさを感じるところ、また病によって内側から体が変わっていってしまうような感覚もあった。楽曲で数多の細胞の記憶が呼び起こされ、それに身体が突き動かされているように思えた。
森山開次氏のまた死神を模した黒いマントを羽織ったときは、照明によって体が大きく見えたり、千手観音のように見えたり、とても効果的だった。
クライマックスに向け森山開次氏のが動くほどに演奏家の奏でる音も、舞台のエネルギーの動きとともに、動いているように感じられる。森山開次氏のコメントでも、五重奏として身体を重ねる、とあったのだけど、その通りのものをこの眼で観ていた。
最後は会場が真っ暗になり、白い四角に体を預けた乙女の静の姿だけが浮かび上がった。
その瞬間、何故か私は死んだ、ではなく、生まれた!と思っていた。自分が子どもを生んだときのように。
そこには特別な意味があるわけではなく、それが魂の喜びと言わんばかりに、死と生が同時に存在していた。
森山開次氏の魅力というか、私が勝手に思うのは、ご自身の身体にとても感謝されていて、その上で徹底的に使い込んでいらっしゃるのではないかということ。
細胞が、なぜ私を象っているかの答えをみせてもらっているみたいで、唯在る、という超ニュートラルな私の状態を確認することができる。
また観たいと思うけど、そんなに何度も演れるものでもないかもな、と思いながら帰宅。高校生の娘も「すごかった、映画観たみたいな感じ」と言っていたので、クラシックで難解かもしれないと不安だったが、ちょっとは通じたかな、と母としては安心したのだった。
それから私は何度も舞台思い返し、素晴らしかったな、どのフィールドであってもかく在りたし、と感動が長く続いている。