喪失から再生への道 〜 宇多田ヒカル 「Fantome」
新たな「道」は、何らかの喪失を乗り越えたところに現れるのかもしれない
大きく高くジャンプをしようとするときには勢いをつけるために、一度、屈(かが)まないといけない。今が最悪の時期だとしても、それはこれからのジャンプのためのホップステップの段階と思えたら。それは、悲しい時期を乗り越えていく力の一つになるのかもしれない。
アーチストにとって、その時期を乗り越えて、新たな高みに到達する手段は、おそらく、、絵を描くこと、デザインをすること、詩を書くこと、何気ない写真を撮ること、そして、音楽を生み出していくこと。。。
つまり、彼らにとっての根源的な「仕事=WORK」がその原動力となると思う。
辛い体験、悲しい体験が訪れ、一度、屈むことを許された芸術家は、屈みながらも自分の表現を武器にして、さらに大きく羽ばたいていく。
今回ご紹介するこのアルバムは、まさにそういう種別のもの。
宇多田ヒカル「Fantome」
Fantomeは幻、ふとした瞬間に感じる気配という意味のフランス語。
宇多田さんはこのアルバムに取り掛かる前に、母を亡くした。このアルバムは、癒えない心情が、哀しみにくれる情景から、エキセントリックな感情の吐露を経て、最終的には、自らたどり着いた(たぐりよせた)「道」、希望の未来へと連なる、一連の精神的な物語。
歌詞の中に、今は亡き、母親の気配、魂、Fantomeが見え隠れする。
「桜流し」
最愛の人を亡くした時、その人が隣にいないことを不思議に思うことがある。
「あれ、もうこの世にはいないのか・・さっきまで、あなたが生きていると同じ日常にいると思っていたのに、、」
そう、死の事実は消えないが、なぜか、、近くにいる気がする、、、けれど実際はいない、、そんな事実に気が付いてハッとする。幻。。。幻想。。。そして、リアルな哀しみが来訪する。
「荒野の狼」
狼、、一般的には、野生の世界でも、戦闘力という意味では上位にくるであろうこの動物も、おそらくは、愛情を一心に抱えていて。誰かを失った悲しみは同じように押し寄せてくる。
「真夏の通り雨」
「忘却」
愛と憎しみは表裏一体の感情。
愛が深ければ、その喪失から何かを憎みたくなる。哀しみが閾値を超えるとそれは怒りに向かう。そして、自分がその現象に捉えられていることに気が付き、抜け出そうともがくけれど、もがけばかえって自暴自棄な心が増殖していく。
「ともだち」
報われない思いは、愛情へと向かう。それがどういう着地点を迎えるかはわからない。けれど、これもまた、哀しみを癒そうする先にある世界。
「二時間だけのバカンス」
よいか悪いかはさておき、これもまた愛情という言葉の含むジャンルの一つ。
「人魚」
海から出ることが叶わなかった人魚は、非現実を現実にする代償として命を失った。でも、彼方に去った人ともう一度会えるというのならば、、、。そしてもこの世の中に魔法というものが存在しているとしたら、、、、我々は、どういう行動をとってしまうだろうか。
「花束を君に」
もう会えないとしても、記憶の中には、生き続ける。思い出の中のあなたに花束を贈ろう。共に過ごせたことへの感謝の気持ちとして。
そして、思い出に花束を贈り、心情の整理がどうにかついたそのさきに。。。「道」が訪れる。それは希望の道
「道」
心の中に、あなたがいる。いついかなる時も。一人で歩いたつもりの道でも始まりはあなただった。さみしいけれど、それは孤独な道のりだけれど、一人じゃない。心はあなたとともに。そんな気分
たどり着いた「道」
「Fantome」というアルバムは、この「道」という曲から始まる。
大いなる喪失から、産み落とされた一連の楽曲の中で、最終的にたどりついた未来を示す「道」を冒頭にすえているというのは、何らかの彼女なりの意思表明。
辛いこと、悲しいこと、そういう事実は、必ず押し寄せてくる。その時、このアルバムは、いつもそばに居る「あの人」のような存在として、寄り添ってくれる。そう信じる。
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