いすをたおす
尻が足りない。人間の尻の数がぜんぜん足りない。
家、会議室、レストラン、電車、公園、学校、球場、映画館、バスなど、この世に存在するすべての椅子の数を思うと、あまりにも尻は少ない。あるいは椅子が多すぎる。床でも地面でも階段でも手すりでも、椅子でなくても座ることはできる。そう思うとなおさらだ。世界に椅子が多すぎる。
座ってみて、心地いいフィット感のある椅子を「よい」と形容する人は少なくない。わかる。気持ちはわかる。座ってみて、尻や足の位置がなめらかに定まって、その椅子に対してどのように体を使えばいいのか、明確にアシストしてくれる椅子のうれしさは、これは身に覚えのある感覚ではある。
しかし同時に反抗心もあおられる。体の使い方を、椅子によってコントロールされているとも感じるからだ。座り心地の「よい」椅子がおこなっていることは言っちゃえば拘束である。ひと様の身体運用のありかたを無機物が掌握しているのだ。ステルス拘束具。われわれは座っているのではない。この器具によって座らされている。われわれが主体的に、よろこんで座る状況を、椅子が仕掛けている。
尻の数に対して圧倒的に多く存在する椅子たち、そして、たいへん巧妙なやりかたでわれわれの身体運用をコントロールしている椅子たち。こんな椅子たちがもし、人間に対して一斉に決起するとたいへんなことがおこりかねない。彼らが一体となって、よからぬ企みに夢中になりだしたら、これはどうなるか、わかりませんよ。
いや、しかし、そうではなくてもしかして、すでに「計画」ははじまってるのかもしれない。だって、そう思って世の中をとらえなおして、なにか矛盾がみつかるだろうか。経済活動とは椅子のためのものなのではないか。政治とは椅子を機能させる構造のことを言うのじゃないか。その他、椅子のための環境保護、椅子のための教育、椅子のための福祉、椅子のための産業技術、医療器具、それらはすでに行われている。椅子に座るために二足歩行になり、椅子のために老いる。座るべく起床し、座るために外出し、座るために帰宅し、また明日、座るために床に就く。われわれは知らずに従事させられている。椅子に。
悔しい。みじめだ。世界を動かす構造に対して、権力に対して、個人はどのように立ち向かえるだろうか。打倒はできない。それはわかっている。しかし、反抗を示すことはできる。倒せなくても、反抗さえすれば、自尊心はなぐさめられる。わからずやの「私」がいる、いいなりにはならないぞ! という自覚が、私を私にしてくれる。
立って過ごすとか、椅子には座らないとかで、直接の関係を断つこともできる。椅子をテーブル代わりに使ったり、家具屋の陳列のように壁にかけることもできる。しかし最もわかりやすく、切れ味が鋭く、なにより、椅子にとって屈辱的な反抗は、椅子の上に立つことである。
ただし。
両足の足の裏を置きやすい座面の椅子、つまり「立ちやすい椅子」が登場する可能性はある。相手は巧妙だし、巨悪なのだ。それくらいの嫌がらせをしてしまえるだけ根性は曲がっている。だがおれはまけない。そうなれば次の手を考えるまでだ。
いまはひとまず、立ちやすい椅子が登場しないことを願う。まだ戦いは続く。