地域アート批判:誰でも言えることしか許さない関係者、から逃れるための、「誰でもない存在になること」の努力――「中間思考」で存在論と、形而上学を偽る輩から逃れて、多様体を変化させる勇敢な「ローカル」から「グローバル」を探索する一匹狼について——
一番大切なのは、運が尽きたときに自分がどのような人物であるか、ということなのだ。…時が来たときに一番大切なこと、そして常に大切であろうことは、人生をオオカミの冷たさをもって生きるということだ。…そこにわたしたちが生きられる瞬間が訪れる。これらの瞬間が、わたしたちを生きるに値する人物にする。なぜなら、究極的には、挑む意志(ディファイアンス)(反抗)によってのみ、わたしたちは救われるのだから。もし、オオカミが宗教をもっているとしたら、もしオオカミの宗教があるとすれば、その宗教はこのことを教えてくれるだろう[i]。——マーク・ローランズ
群れや徒党のリーダーは、一手一手に勝負を賭ける、つまり彼は一手打つたびにすべてを新たに賭け直さねばならないのだ。…群れは、自分の場所にあるときでさえ、一つの逃走線あるいは脱領土化の上に成立し、この線は群れそのものの一部をなし、群れはそれにある高度な肯定的価値を与えるのだ[ii]。——ドゥルーズ&ガタリ
この論考は、つねに「とある地域[une région]」を対象としておこなわれる姑息な活動と試みの分析を目的としている。「幸福とは何か」、このような現代アート的問いがあったとしよう。多くの場合、この問いは幸福を広めていくためになされるのだが、「〈私〉と同じようにすれば皆も幸福になれるのに!」というような仕方で、〈私〉が考えた幸福論が他人にも同じように当てはまるという想定の下で、その答えが出されてしまう(下品な幸福論のように、たとえば、アラン)。他の人は異なった場所、地域、文化において生活しているのに、そのことを考慮せずに、あくまで自分を中心にして物事を考え、他人を〈私〉と同じものへと引きこんで変えようとするのだ。また、この「場所」や「地域」について言えば、近年のアート界では「地域」や「ローカル」が強調されることが多いが、それらもまた問題含みである。どのような方法を取ろうにも、〈私〉や自分を中心とする限り、「地域」や「ローカル」に関わる作品制作や活動はある意味では排他的なものになってしまう。つまり、その人から見た地域にしかならず、すべて俯瞰して把握することはできないので、必ずそこにいる誰か、そして、起きた出来事の一部が排除されてしまうのだ(このようなことをする者ほど、「他者」という言葉を使いたがる、あるいは、その現代アート、地域アート的身振りには注意がどこまでも必要である[iii])。だからこそ、この問題に誰かが勇気をもって挑まなくてはいけない。それは、あくまで「誰でも言えること」ではなく、本当の哲学と思想によってである。
「地域」や「ローカル」は、その人から見たフェイク[何ものとも無関係な「フィクションの存在論」については、拙論を参照せよ]にしかならない。それに対して、最近の芸術的行為は対面で他者とコミュニケーションを取りつつも、デジタル機器を上手く利用することで、これらの問題点を乗り越えていく。たとえば、まず始めにiPad Proを上手く使って、アナログではなくデジタルで似顔絵を描いて楽しいことができないかと考えた作家がいる。また、描いた絵をInstagramに載せていたのだが、返ってくる反応とコミュニケーションが「いいね」だけなので、楽しさが足らず、リアルの世界で絵を介してコミュニケーションを取る方法を模索したとする。しかしながら、よくおこなわれている似顔絵屋だと敷居が高くなってしまうので、プリクラのような気軽さで、「似顔絵」を描くことを思いついたとしよう。屋台において、作家は一回につき10分ほどの時間をかけてデジタルイラストとして「似顔絵」をiPad Proで描き、モバイルプリンターで印刷して、それをお客さんに渡す。また、赤ちゃん、ペット、祖父母の写真を渡されて、対象のコピーである写真からさらにデジタルな絵を描くこともあるとしよう。作家のデジタルイラストは「似顔絵」なのだが、その絵はいったい何に似ているのだろうか。通常の似顔絵は、オリジナルとしての描かれる対象が存在し、そのコピーとしての肖像画が鉛筆や筆などを用いられて、主体としての描き手によってアナログなものとして描かれる。たしかに、そこにはアナログならではの温かみがあるだろう。それに対して、新たな「似顔絵」はデジタルイラストなために、人物がデジタル像へと変換され、観る者にプラスティックな印象を与えつつも、不思議な温かみを感じさせる。ジャン=リュック・ナンシーは「似顔絵(肖像)[portrait]」を描くことは、何かに似ているものを描くことではなく、「搾りだす[traire]、外へ出すこと。…肖像画を描く[portraire]とは、前方へ引きだすこと…肖像を描く[portraiturer]とは、現前を外へと引きだすこと——その現前が、ある不在の現前として[iv]」と述べている。
つまり、デジタル機器を用いた作家の「似顔絵」は、デジタル機器を経由させているが故に、オリジナルのコピーとはならずに、むしろ、出会った人々から何かを抽出する、引きだす行為になっているのである。「楽しさ」をによって引きだされるのは、普段は不可視である自分とお客さん(複数人の場合あり)の間に存在し共有している、喜びの情動であり、また、それぞれの人にさまざまな形で存在している幸福の光景である。「似顔絵」に刻まれたこの「喜びの情動」と「幸福の光景」は、そのイラストを他の人が観ることによってさらに多くの人に共有されていき、喜びと幸福は拡散され波及していくことになる。作家が抽出し、引きだす「喜びの情動」と「幸福の光景」は「誰にも似ず、むしろ似ていることそれ自体に似る[v]」のであり、個人に所有されることなくさまざまな人に同じものを増幅させていく。これが、〈私〉という主体を中心としない幸福を広める手法である。
「似顔絵」はオリジナル/コピーの二元論の構造を脱構築し、誰のものでもなくそれ自体にしか似ていないことで同じものを人々に波及させていく「シミュラークル[simulacre]」を創造する。「シミュラークル」としての「喜びの情動」と「幸福の光景」はどの主体や対象にも帰属せず、誰のものでもなく、(場合によってはインターネットを介して)世界中の「似顔絵」の鑑賞者にただ広がっていく。作家の「デジタル似顔絵屋台」における試みは、さまざまな「喜びの情動」と「幸福の光景」を抽出し、時間的にも空間的にも距離のある人々にそれらを拡散させ、無関係だった人と人を結びつけていくのだ。無数である任意の人数を選ぶことができ、組み合わせ方も場所に応じて無数にあるのだが、重要なのはそれらの人々はそもそも地域において赤の他人であり、無関係だったということである(「諸関係はその関係の項に対して外在的である[vi]」=「離接的綜合」)。その多数を任意の仕方で選び組み合わせることによって、どこでもない地域へと場を変換させ、フィクションの力から、「偽なるものの力能[puissances du faux[vii]]」によって、作家は存在しなかった新たな他者性を帯びた「喜びの情動」と「幸福の光景」を生みだすのだ。
たがいに異質な諸部分の集合としての世界——終わりなきパッチワーク、あるいは乾いた石の数々でできた果てしない壁(セメントづけされた壁や 何かパズルの破片といったものなら、一つの全体性を再構成してしまうだろう。)サンプリングとしての世界——サンプル(見本)とは、まさしく、通常のセリーから解放されているような特異性、注目すべき非-全体化可能な諸部分のことである。サンプルは、あるときは、空間の隔たりに よって分離された諸部分の共存に応じたさまざまな事例であり、またあるときは、時間の隔たりによって分離された運動の諸相の継起に応じたさまざまな眺めである[viii]。
「地域」や「ローカル」を語る者は、気づかぬうちに誰もが〈私〉から見た関係性[ix]、地域のあり方へと他者を勝手に閉じ込めてしまう。それに対して、作家は無関係性にもとづく「サンプリング」によって、過去と現在において存在しないはずの新たな「喜びの情動」と「幸福の光景」を、経験不可能だった他者性として未来のために創造するのだ。重要なのは、リアルかフィクションかの対立ではなく、そもそもフィクションであることの徹底が足らず、その徹底化が別のリアリティとしての全き他者性をもたらすことだ。
したがって、「サンプリング」によって生じる「場所」や「地域」はどこにもないのであり、むしろ、そのフィクションとしての新たな「ローカル」性が、これまでの地域アートやローカルの考え方への批判にもなっている。作家は、「ローカル」か「グローバル」、部分か全体、さらに、部分からのボトムアップか全体からのトップダウンかという二元論ではなく、どこまでもフィクションの「ローカル」によって、世界の喜びと幸福のあり方をつねに批評し、「グローバル」の知られていない新たな側面をかいま見せるという手法を採用する。作家は「幸福とは何か」という問いに対して、安易に「ローカル」や「グローバル」を一般化してその答えを出すことはない。むしろ、私たちはつねに変動する「グローバル」に内在しているのであり、「ローカル」な位置からさまざまな仕方で問うことによって、「グローバル」とその理念(喜び、幸福など)を新たに探査していくことができる。「ローカル」が固定されてしまえば問う力は減衰してしまうが、フィクションとして創造的に新たな「ローカル」を生じさせていけば、問いの潜勢力はつねに増強していくであろう。たとえば、ドゥルーズ&ガタリは物理的に移動することなく、その場で、問う力によってあらゆる空間を踏破する者を「ノマド[nomad]」と呼んでいた[x]。作家の場合は、そこからさらにフィクションとしての新たな「ローカル」性を、これまでの固定化されたローカルとグローバルに対抗して創造するのであり、「ノマド」を超えた多様体の思考となる。その新たな思考を「対抗的なローカル[contre-local]」という新たな概念によって名づけよう[この一番の理論的問題点については、これからも永遠に公表しません。現実の世界、社会におけるその対抗点]。
それは統一性からなっているのではなく、さまざまな次元から、あるいは むしろ変動する方向からなっている。それはn次元からなる線形の多様体、主体も対象もなく…そこからつねに〈一〉が引かれるような(nマイナス1)多様体を形成する。このような多様体はそれ自体性質を変えて変貌することなしには、その諸次元を変化させることもない[xi]。
そもそも、「地域」や「ローカル」が強調されるわりには、世界中でおこなわれている地域アートの手法がコピーされた似たり寄ったりのものである。また、その場所にしかないと言いながらも、語られるのは似たようなストーリーであり、同じような悲劇である。「地域」や「ローカル」における他者や出来事は、世界的にその主体にとって安全な、似たようなものへとアートによって還元されてしまい、SNS全盛の現代情報化社会においてはローカル/グローバルの区別は曖昧になってしまう。それに対して、徹底的なフィクションの「対抗的なローカル」は誰もが気づかず、思考できなかった「グローバル」のあり方を批評的に生成させ、作品による「対抗的なローカル」の創造と同時に「グローバル」の新たな側面も切り開かれて生じてくる(多様体がさまざまな下位の次元によって切断されそのあり方をそのつど探査されるように)。フィクションの「対抗的なローカル」と新たな「グローバル」の生成は同時的なのだ[xii]。その創造的な手法によって、オリジナル/コピー、リアル/フィクション、ローカル/グローバルといった通俗的なアートの二元論を巧みに回避して[xiii]、「地域」や「ローカル」における本当の他者性を私たちに教えてくれるだろう。これが、哲学と思想によって「地域」や「ローカル」を誰も成し得なかった「多様体」から問い直すことの意義である。
経験不可能だった新たな「喜びの情動」と「幸福の光景」——重要なのは、「幸福とは何か」という問いに対して安易に答えず、むしろ、問いの潜勢力を強めていくことである。その問いがもたらす未聞の「幸福」は、全き他者性として私たちの生をそのつど批評していく。——こうしてまた、いつかの休日に、何も排除することなく、どこかの地域であらゆる他者は歓待されるのだ[xiv]。
ところで、多様体をさらに思考するために、ゾンビを例にとってみよう。ゾンビは、最も「生」を理解している存在である。知られているように、ゾンビはテレビや映画に出てくる歩く死体、さまよう死体のことである(ちなみに、著者はゾンビが好きすぎて、家では、ゾンビごっこをして遊ぶくらい好き。もしよろしければ、誰か一緒にゾンビごっこをしませんか。とても楽しいですよ)。ゾンビについては、評論家などもおり、その「すでに死んでいるが動く」「噛むと人間にも感染させる」「知能がきわめて低い」「歩くのが遅い」「群れで行動する」などのユニークな特徴を分析して、そこから湧きあがる恐怖について語る人々がいる。あるいは、ゾンビが大量発生することで社会は無法状態となり、生き延びるために利己的になった人間たちのほうがゾンビより怖いと言う人々もいるだろう。だが、そうなってくると、ゾンビ映画の魅力はゾンビから考えるか、人間から考えるかの違いとなる。それは、ゾンビが怖いか人間が怖いかの二択でしかない。しかしながら、人間から考えるという舞台でもできることを、わざわざ映画でやる必要があるのか。あるいは、友人や家族などが噛まれてゾンビになる前に人間の尊厳を守るために殺す、みんなの食料のために勇敢に危険地帯へと入っていく、他人を守るために自分がゾンビの犠牲になるなどの、ゾンビ映画ならではの人間的な感動もあるだろう。しかしこれも、ゾンビ映画の面白さを人間へと還元している。ゾンビの魅力はそんなところにはないのではない。ゾンビに恐怖を感じるならば、それは〈私「ローカル」〉から離れて、世界において別の生きかたをすること、その新たな「切り口」への本当の恐怖ではないか。
変則者は個体でも、種でもなく、ただひたすら情動をになうものである。ありふれた、あるいは主体化された感情を含むこともなければ、特定の、あるいは意味深長な性格を含むこともないのだ。だから思いやりの情も、人間的な部分類も、同じく変則者には無縁である。ラヴクラフトはこのような〈もの〉、あるいは「このような抽象的実体を局外者(アウトサイダー)と名づけているが、〈それ〉は周縁からやって来て周縁を乗り越え、一本の線のようでありながらさまざまに姿を変え、「うごめき、沸き立ち、うねっては泡立ちつつ伝染病のように広がる、あの名もなき恐怖」である。個体でも、種でもないこの変則者とは何か。 個の現象である。ただしそれがボーダーの現象であるということを忘れてはならない。…次元を変更し、次元を一つでもつけ加えたり、とりのぞいたりすると、それだけで別の多様体になる。そこから、個々の多様体ごとに一つのボーダーが存在するという事実が浮かびあがってくるわけだが、しかしこのボーダーが決して中心ではなく、包括的な線、あるいは極限の次元であって、それに応じてある時点において群れを構成する他の線や次元をすべて数えることができる(この一線を越えると多様体の性質が変化する)[一]。
拙論「純粋な鑑賞のための任意空間:ヴァーチャル空間から引き出されたイメージと身体性」において、元祖のデュシャンから説明し、芸術における多様体の意義について説明した。そもそも、人間の恐怖というものはすでに飼い馴らされており、〈私〉が知っていることから想像した、類推した怖さでしかない。かつて、子供のころは何も知識がなかったので、目の前にあることを説明できず、夜の闇は闇のままだった。それでも、成長するにしたがって、その闇の正体が分かってくる。そして、恐怖というものは「こうなったらさらに痛いだろうな」「いまは生きてて意識があるけど、死んだら意識がなくなる。それはどういうことだろう。寝てるときは意識があるし、それとも死はちがうだろう。」「もし死体がよみがえったら」「もし、人間とはちがう知的生命体がいたら」などの〈私〉を中心とした、〈私〉が知っていることから派生したものに成り果てる。本当の恐怖は、〈私〉によっては説明できないものであり、その先にはまだ知らない世界のありかたと人間の生きかたがあるではないか(多様体の切断から生じるクトゥルフ神話の恐怖[適当に本を取れば「クトゥルフ神話」に引っかかるのが文学かと。残念ですが、現代の指先には、誰でもいえることに向く])…おそらく、それは希望と呼べる。なぜなら、そこには誰もが説明できないものが現れるからである。これは、「この説明できなさが重要」などという誰でもいえることで誤魔化す名古屋大学のA庭氏(ローカル、地域、中動態論者)のふざけきった発言ではなく、「多様体」に対する向き合いかたが(他人を利用してパッチワークするのではなく)自分が努力することによってそれが開いて来るという意味である。〈私〉による「ローカル」な人間的感動などあまりにも安っぽく陳腐で、狭く浅はかで、無内容で利己的である。肉体があるうちは同情されるが、その後は、限りなく無意味で誰もいない存在しない感動…。あまりにも刹那的で、打算的で、利己的な「ローカル」と「地域」。
ゾンビの面白さは、ゾンビと共にいるときに、人は人間であること、あるいは、〈私〉から離れて、大きな「群れ」をつくり世界を生きていくことである(こうして、現象学は完全に無効化される)。たとえば、人間はゾンビの群れのなかに投げ込まれてしまい、その群れに立ち向かったり、無理やりに逃げたりすることによって、それまでのゾンビの群れを別の形へと変えてしまうことになる。また、隔絶した人間の徒党があったとしても、そこに何となくゾンビがやって来て、その徒党を解体し、新しい徒党を生み出し、別の場所にあるほかの集団へと向かわせたりする。ゾンビ映画においては、ゾンビの群れも人間の徒党もつねに同じではなく、そのつどの状況におうじて変化していく。ゾンビの群れを人間が、人間の徒党をゾンビがかき乱して行き、影響が伝わっていき世界の状況は変化していく。そして、ほとんどのゾンビ映画は、ワクチンが開発されそうなことだけを匂わして終わる(これは偽りのゾンビへの考察)。結局のところ、ゾンビと人間の絡み合い、相互作用には終わりがなく、その最先端で何かが起こることによって、ゾンビと人間が巻き込まれていく状況だけが変化していく。つまり、ゾンビと人間は両者ともに世界における大きな「群れ」を形成し、その「群れ」が形を変えることで新たな世界のありかたが生じる。フィクションのゾンビよっては、浅はかな「ローカル」と「地域」は常に無効果され、それに対抗する境界が少しずつ見出される(「多様体」を思考できない「ゾンビ学」の無能さ)。群れの境界線であることによって、「ゾンビは常に境界にいるものである(ミシェル・セールのようにそれをすぐに即物化するから可笑しくなる。偽りの多様性。)」、「ローカル」と「地域」そのものが批判され、「グローバル」な全体性が批判されるままで生じてくる。しかしながら、誰でもいえることを、その無能への共感をゾンビに引きつけようとすること。その「醜さ」はゾンビに対する偏見と重なっている。「誰でもいえること」、「誰でも表現できること」=「ゾンビ」にしようとするその本質的な醜さ。これは、自己同一的な「ローカル」と「地域」しか認めない、「誰でもいえる」者になることを強要する現代アートと「リベラル」の戦略に近づき、その「みにくさ」を姿形の「醜い」とされてきたゾンビに謝罪するべきである。
ゾンビ映画の第一人者であるジョージ・A・ロメロは、ゾンビでも人間でもなく、それらが成す「群れ」の最先端にある境界を撮っていた。その境界はゾンビと人間がなすだけではない。たとえば、『ランド・オブ・ザ・デッド 』は知性をもったゾンビの出現によって、これまでとは異なったゾンビの群れが生じ、人間の集団のありかたにも変化をもたらす。そして、貧富の差が激しいゾンビ・パニック後の社会で、ゾンビとの闘いだけではなく、平地に住む貧乏人と高級マンションに住む金持ちのあいだでの階級闘争まで起こる。ゾンビの突然変異(?)によって、ゾンビ/人間のあいだの境界が揺れて、そのことが他の境界も揺るがし、境界の変化はタワーマンションのなかへ排斥されたものが入りこむことによって可視化される(この点はバラードの『ハイライズ』を想起させる)。『ダイアリー・オブ・ザ・デッド 』では、「よく議論になるだろ 移住なんて認めるなとかね 国境を越えて来る連中に皆厳しい だがいまや問題は 生死の境を越えて来る連中さ」というセリフもあり、より作家自身も変化していく境界に自覚的になっていく。この作品ではYou Tubeなども登場し、ある人からの視点による動画の映像が混ざり込み、既存のメディアの影響力を超えて、個人が発する情報が遠くに住む人に影響を与えたりもする。ヴァーチャル/リアル、オールド・メディア/ニュー・メディア、マス・メディア/個人の発信、インターネットによって生みだされた境界がさらに世界の「群れ」を変動させていくのだ。
しかしながら、ラストシーンでは「群れ」ではなくただの集団、ただ〈私〉にこだわる人間たちが出現する。その人たちは木から一匹のゾンビを吊るして、銃で撃つことを気晴らしとしている。そのゾンビが流す「血の涙」は、境界そのものを生きる存在者が、それを封じようとする者たちに対して流したものである。現代では、「中間にあるグラデーション[X]」という後づけですべてを包摂しようとする、どこまでもマガイモノの生きられていない境界が流行っているが、この「血の涙」をそれに反抗するものとして探さなければいけない。それは、どこにあるのか。たとえば、映画自体がそうなのではないのか。映画とは人工的なフレームで世界のイメージと音を機械的に切りとる形式の芸術であり、その面白さは、まさに人工的な切り取りであるからこそ、あまりにも人間的な〈私〉からは見えず聴こえなかった、世界の新たな側面を創造することにある。映画館に行くのは自分が見たこともないものを見るためであって、〈私〉が好きないつも同じようなものを見て、自分を確認するためではない。映画は人工的かつ機械的に、無関係なイメージと音を結びつけ、ただ切り取り、フィクションを生じさせる。その多様体からの切断はこれまで存在しなかったものを生じさせる。映画館は、誰でもないものたちが集まり、この世界にはまだ新しいものを生みだす力があること、そして、そのことをもう一度また信じてみるためにある(ここでも、無関係な(「離接的綜合」による)多様体の生成)。そこで流される涙は、〈私〉から離れる喜びと悲しみによる、そして、世界そのものの潜勢力をもう一度信じるようとする「賭けの涙」なのでしかない。
――多様体と「フィクション」を理解できなければ、ゾンビ研究を名乗るのを辞めた方がいい。現代のアート主義は、眼、頭、センス、実力などがないのでもない、多様体に向き合って「生成変化」する勇気がないだけである。
それと同じことは狼にも言うことができる。著者はゾンビと同じように一匹狼を好む。ただし、それは独りでいるのが好きという意味ではない。むしろ、一匹狼ほど「友」というものを知っている生き物はいないからだ。たしかに、狼の生態は群れ社会であり、成長してそこから離れた一匹狼は孤独にみえる。しかしながら、一匹狼が生きているのは他の狼たちの群れと群れのあいだ、誰のものでもない緩衝地帯を生きている。狼の群れは必死で縄張りを所有しようするが、一匹狼に所有する領土などない。群れにいる狼たちは狭い社会を生きているにすぎず、世界を所有したがるあまりにも完結した生しか知らない。しかしながら、一匹狼が他の生物とともに生きているのはより大きな「群れ」なのであり、そのつど変化していく世界そのものと言ってもよい。その緩衝地帯には恐ろしい生死の争いがあり、他の生物は敵となる。それでも、おのれの一手をつねに賭けることで、どこかで互いの能力を触発しあっており、世界をともに作っているという意味でそれは「友」なのだ。その誰のものでもない「場」において、勇気を出した新しい一手を創造したものはどんな生物であれ、世界という「群れ」のリーダーとなるだろう。
一匹狼はいちいち「〈私〉のことを認めてくれ!」、「〈私〉は〇○な者のために~をやった!」、「〈私〉は~を代表している!」などとは言わない。一匹狼はこうしたことに全力で反抗する…こんな誰でもある〈私〉に「友」などいるはずないからだ。むしろ、ただの集団から離れること、他と比べるしかない〈私〉から離れること、誰でもないものとなり誰のものでもない「場」を生きること、これが世界において「友」をつくる方法となる。一匹狼は世界そのものを生きる秘訣を教えてくれる。ソ連の映画作家、アンドレイ・タルコフスキーは『ノスタルジア』という作品において、「1+1=1」という奇妙な公式を提示した。この公式の意味も、一匹狼ならば教えてくれる。ただの集団においては、1は他の1と仲間になることで2になる。たしかに、1よりは2のほうが強い。さらに、1が加われば3や4、5、6…となり、その集団が存続する可能性は高くなる。それに対して、一匹狼が生きる「群れ」においてはそれぞれの1がたがいに変化していくことで、世界そのものを創造していく。1は安定した1ではなく、1どうしが互いの能力を触発し合うことによって、それが世界そのものとなっていく。1にどれだけ1が加わろうともそれは1(世界そのもの)なのだ。そして、世界が変化していくためには、それぞれの1がおのれのすべてを賭けた、勇敢な一手を創造していくほかない。このような全体か部分かという関係ではなく、部分の諸関係が次元と領域をつねに変化させていき、そのつどの全体とされるものを生みだすものを「多様体[multiplicité、manifold]」と言う。世界は多様体であって、それぞれの存在者がそのなかで生きて、おのれを生成変化させることで、その多様体も変化していく。この多様体を上から眺めたり、《私》のものとしたりすることはできない。そして、ドゥルーズ&ガタリは、本もまた多様体であるとしている。
本が何によって機能しているのか、何との接続によって強度を通しあるいは通さないか、どのような多様体のうちにみずからの多様体を導きいれ、そして変貌させているか…本というものは外によってしか、そして外においてしか存在しない。こうして本というものがそれ自体一個の小さな文学機械である以上…ものを書くとき唯一の問題は、文学機械が機能するため にはいかなる別な機械とつながれうるか、そしてつながれるべきかということなのだ[xv]。
ここで言われているのは、本はそれ自体で機能したり、〈私〉によって所有されたりするものではないということ、そして、書き手と文書上の〈私〉は一致しない。「書き手と文書上の〈私〉は一致する」という迷信から逃れることができるならば、一匹狼が生きる群れと群れのあいだ、誰でもないものたちの「場」を書き手もまた生きることができる。この論考においては、文書はただの書籍として機能させるのを止めて、〈私〉に固執するならば出会うことのなかった問題と「友」に触発されて、これまであり得なかった人間の思考と身体、そして、世界のあり方をともに探求することができた。たしかに、本を〈私〉の心情や思いのために書いて、それを流通させて、〈私〉に共感する別の〈私〉を探しだして、本と自分のためだけの利益を交換することもできる。本はフランス語でlivreと言うが、これはかつてフランスで用いられていた貨幣のことも指し「本=貨幣」となる。かつてアンドレ・マルローは、人間はやがて死ぬが、芸術作品のフォルムは作家が死んでも残り続けるのであり、だからこそ芸術は人間の運命に対抗しようとする、いつの時代においても通用する価値をもつ「絶対の貨幣」であると述べた。しかしながら、この貨幣を彼の言うような美術館においてではなく、現代のあらゆる問題と接続させることで、そこに隠れている自分の利益を求める態度を消し去らなければいけない。マルローにはいまだ〈私〉には価値があるはずだという考えが残っている。それに対して、〈私〉から逃れることで、本をさまざまな次元と領域からなる多様体に接続させて、そこで出会う問題や「友」と世界そのものをともに創造していくこともできる。それは、本を利益(経験的な「交換」を超越論的な「贈与」と偽る、超越論的な思考を無かったことにするミシェル・セールのように、「交換」しかしていないのに[何も変わっていないのに、中間にいることで]あたかも何か与えたように偽る、中間論法の詐欺)とは一切無縁の世界という多様体の「変調器[modulateur]」にさせる。
一匹狼こそがこの多様体を生きており、そこでもっとも必要とされる「勇敢さ」を知っている。それは、孤独ではなく、「友」のために自分を生成変化させ続ける、世界を創造的に変えていく純粋贈与のための身振りなのだ。それは、何度諦めそうになっても、もう一度だけ、世界には新しいものを生みだす潜勢力があることを信じる身振りとなる。この論考では、アート界で再三されている何か言っている・やっている風の「ただのコピー」ではなく、「ローカル」や「地域」をきちんと哲学と思想によって問い直すことで、新たな思考である「対抗的なローカル[contre-local]」という概念の意義を明らかにした。誰もが逃げようとする存在論と形而上学は、誰でも言える「フェイク」と誰でもなくなる「フィクション」の差異を生じさせ、アートや芸術を真に支えるものである。そこからひたすら逃げようとする、「現代」アートの「誰でも言えること」の罪深さは、その罪をアート、芸術だと言い張る醜さである。
PS. 「地域アート」、あるいは、「関係性の美学」など、「中間思考(中動態、純-客体)」などで誤魔化す輩へ……これからも何の努力もせずに、人脈だけで何かやっている、言ってる振りをして、誰でもできることだけしていてください。それが、どれだけ周りを不幸にしているのか気づく能力もないのでしょうが。リベラル派は「誰でも言えること」をコピーして他人を非難しますが、誰もが「誰でも言えること」をコピーするようになれば、自由、平等、公平、差別の撤廃が実現されると本当に思っているのですか?それは、「誰でも言える」ことしか言えないコピー機が増えて、さらに、世の中が混沌として「無意味」が拡大するだけです。現代の、リベラル派とアートの問題点をこれからもご自身の無能さでそのまま示してください。「リベラル」を名乗るなら、世界中から軽蔑されているこの国の刑事司法の問題や、そもそも、近代憲法を理解する・書く能力すらなかったことを問題にするべきでは(もしかして、憲法の問題について自分で考えて調べる能力すらない)?世界が、世界がとほざきながら、「近代」と徹底的に逆行する考えしか持てず、言えないのは非常に残念です。誰でもできることをやれば、「アート」になってよかったですね。これからも、何もやってないが故に周りの人を本当の意味で「不幸」にしてください(近代経済学の勉強を少しでもすれば皆が幸福になれると思うのですが)。「近代」の意義すらできない、野蛮人が「リベラル」を名乗るのに笑いが止まりません。個人的に好きではなく、どうでもいいと思っていますが、それでも、ヘーゲルとマルクスを読まないだけでここまで「無能」が拡大するとは予想外でした。……「誰でも言えること」の罪と悪
[i] ローランズ、p.264
[ii] Deleuze & Guattari, p.46/日本語では、p.50
[iii] いつから他者が、〈私〉と似たもの、同じものになったのだろうか?「他者と向き合え!」と口にする者ほど、他人に何かを要求するのはなぜだろうか?たとえ、敵対していたとしても、考え方や思想が違ったとしても、コミュニケーションがとれる相手を「他者」と言えるだろうか。こうした相対的な他者ではなく、私たちに倫理性を突きつける絶対的な他者については、エマニュエル・レヴィナスの著書等を参照せよ。
[iv] Jean-Luc Nancy, Le regard du portrait, Galilée, 2000, pp.50-51/ジャン=リュック・ナンシー、『肖像の眼差し』、岡田温司・長友文史訳、人文書院、2004年、p.90
[v] Nancy, p.50/日本語では、p.40
[vi] Gilles Deleuze, Critique et clinique, Les Éditions de Minuit, 1993, p. 78/ジル・ドゥルーズ、『批評と臨床』、守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳、河出書房新社、2002年、p.127
[vii] 「偽なるものの力能」とデュシャンの「アンフラマンス」によるn-1を用いた、多様体を探査するアートについては、拙論「偽なるものの力能と形態変化」、谷澤陽佑『Pressed flowers』所収を参照せよ。
[viii] Deleuze, Critique et clinique, pp. 76-77/日本語では、p.121
[ix] 最近流行の「中動態」は、〈私〉を上手く維持して、ちょっとした能動-受動に巻き込まれて、自分がほんの少し変化することを誇る。「中動態」が真ん中にあると言いながら文章を引用するだけで、誰もそれを精密に語って存在を証明しないのはなぜなのか?そんな、自分にとって安全な関係性に「倫理性」や「他者性」などあるはずがない。完全なフィクションの機能は、自分、その〈私〉の主体性すらも危険にさらすものである。そこに、「中動態」のような利己性はなく、まさに全き他者性に触れさせ、新たな喜びの形を私たちにかいま見せてくれる。
[x] 「ノマドワーカー」のような、「派手な」物理的移動を称揚する考えは、極めて安易で無内容な誤用である。「ノマドとはむしろ動かない者である」とする、『千のプラトー』の「遊牧論あるいは戦争機械」を参照せよ。
[xi] Gilles Deleuze & Félix Guattari, Mille Plateaux, Les Éditions de Minuit, 1980, p.31 /ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、『千のプラトー』、宇野邦一他訳、河出書房新社、2006年、p.34
[xii] 同時的、かつ、部分と全体における対抗的な因果関係の創造については、福居純『デカルト研究』を参照せよ。
[xiii] それぞれ、「シミュラークル」、「偽なるものの力能」、「対抗的ローカル」が二元論を批判する創造的概念である。
[xiv] 言うまでもなく、「ユートピア」とはギリシア語のοὐ +τόπος (ou+topos)から成り、「どこにも無い場所」である。
[xv] Deleuze & Guattari, p.10/日本語では、p.16
参考文献
Gilles Deleuze, Critique et clinique, Les Éditions de Minuit, 1993, p. 78/ジル・ドゥルーズ、『批評と臨床』、守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳、河出書房新社、2002年
ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、『千のプラトー 資本主義と分裂症』、宇野邦一他訳、河出書房新社、2006年
Gilles Deleuze & Félix Guattari, Mille Plateaux – Capitalisme et schizophrénie 2, Les Éditions de Minuit, 1980.
Jean-Luc Nancy, Le regard du portrait, Galilée, 2000, pp.50-51/ジャン=リュック・ナンシー、『肖像の眼差し』、岡田温司・長友文史訳、人文書院、2004年.
マーク・ローランズ、『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』、今泉みね子訳、白水社、2013年
[一] 多様体の問題については、拙論「純粋な鑑賞のための任意空間:ヴァーチャル空間から引き出されたイメージと身体性」参照せよ。また、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、『千のプラトー』、宇野邦一他訳、河出書房新社、2006年、pp.282-283
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