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いつもそばにいて頷いてくれる「絶望」という教え「希望の絶望論」と、BUMP OF CHICKEN・藤原基央がくれる「杖」を頼りに生きること。(『窓の中から』レビュー)

2023年3月31日、NHKで放送された『18祭』。今回、18祭の楽曲制作を担当したBUMP OF CHICKENの藤原基央さんが番組内のインタビューで語っていた宝物のような言葉たちの中に、特に印象深いフレーズがあった。
 
「しんどくて、つらくて、悲しく、不安で、どうにも立てないという日があるかもしれない。そういう状況の時に、ちゃんと支えになれる、ちょっとやそっとじゃ折れない杖を渡したい。(中略)自分が作れる現時点での最高最強の杖を一緒にパフォーマンスする仲間に渡せたらいいなと。(中略)パフォーマンスをするその日、その瞬間で役割を終えてしまうそんなものを渡したくはないなと。それぞれ自分の生活が続いていくわけで…。」
 
1000人の18歳世代と共に歌うために制作した楽曲『窓の中から』を藤原さんは「杖」に例えて、熱く説明していた。『窓の中から』に限らず、藤原さんが生み出したすべての楽曲はいつもどこかで誰かの心の支えになっていて、生きるための杖の役割を果たしてくれていると気づいた。その場しのぎの杖ではなく、何年か経過しても本当に必要になった時は、最大限の力を貸してくれて、支えになってくれるのがバンプの楽曲。他者の力で歩く車椅子やおんぶやだっことは違い、藤原さんがくれる杖はいつでも自力歩行を介助してくれる。手を差し伸べてくれるけれど、何もしなくていいから完全に頼ってと甘えさせてくれるわけではなく、自分の力を信じて、もう少し自分の力でがんばってみようよとやさしく後押ししてくれる楽曲が多い。
 
《躓いて転んだ時は 教えるよ 起き方を知っている事》『なないろ』
 
『窓の中から』を普通に読み解くとすれば、全国の18歳から募った動画をバンプのメンバーが画面を通して真剣に見て、1000人のメンバーを選んでいたので、PCの画面を「窓」になぞられたのだろうと推測できる。特にコロナ禍だった頃は、オンライン上の窓が他者とつながる唯一の扉だったから、「窓」という言葉をタイトルに入れた藤原さんはその辺を意識したのかもしれないと思った。《強制で自動更新される》あたりもPCっぽい。
 
歌詞の内容について、窓の外に出られず、窓の中でしか生きられなかった孤独な一人一人に寄り添い、励ますように、自分の世界(宇宙)を広げてくれる強さを秘めている。
思い通りの生活ができなくて、《カーテンの内側限定のため息》、《愛読書みたいに並んでしまった独り言》、《痛くない事にした傷》、《グーの奥にしまった》悔しい思い、《鏡からの悲鳴》を人知れず抱えてどうにか生きてきた全員を理解しようとしてくれて、受け止めてくれるやさしさが言葉の一つ一つからひしひしと伝わってきた。
 
コロナ禍で制約の多い学生生活を余儀なくされた成人したばかりの18歳世代の心に響くのはもちろん、藤原さんの歌詞は彼の杖を必要とするすべての世代の状況や心の隙間になぜか勝手にぴたっとはまるから不思議だ。
 
藤原さんは
 
「聴いてくれた人の日常において機能するものしか作る意味がないので、その機能をしっかり持ち合わせつつ、主題歌としても機能するものを作る必要があります。」
(※引用元→BUMP OF CHICKEN「SOUVENIR」藤原基央インタビュー&作品レビュー|再確認した“音楽を受け取る人”の大切さ)
 
と、自身の楽曲制作スタンスを述べているため、まさにその思考が『窓の中から』にも反映されているのだろう。

この点を踏まえて、私が『窓の中から』を聴いて勝手にイメージしてしまったことを綴りたいと思う。(やや飛躍気味の発想ですが、悪しからず。)
 
《ハロー ここにいるよ 生まれた時から ここまでずっと 同じ命を削り 火に焚べながら生きてきた》
 
冒頭の部分から「命」について考えさせられた。個人的に、命の原点は母の子宮の中ではなく、祖母の子宮の中だと解釈している。どういうことかというと、命の元になる卵子は母親が母親の子宮に宿った時点で育まれるものらしいからだ。厳密に言えば、卵子ではなく、原始卵胞と呼ばれるもので、卵子の元になるその細胞は胎児の時点で生まれ、卵胞の数としては生まれる前がピークだという。つまり私の元になった卵子は祖母の子宮の中で母が命になった時点で生まれたと解釈できるため、母が命になった時から同じ命を削って、ずっと一緒に生きてきたと勝手に考えている。だから本当の年齢は母と同じ歳かもしれないとも思っている。命になる前の卵子というひとつの細胞レベルで考えれば。
 
《すごく小さな窓の中から 世界を見て生きてきた ここにいるよ》
 
卵巣の中でたくさんの卵子がひしめき合っていて、実際には見えるわけないんだけど、命になれる日を夢見ている卵子たちが卵巣の中から外の世界を、母親と一緒に見て生きている気がした。卵子を擬人化すれば、ここにいるよと何らかのサインを発しているかもしれないと思った。
 
《ああ ここにいるよ 少し似た色の 知らない光 同じように生きる灯に 手を振っても 分からないかな》
 
卵子と母親は同じ命のようで違っていて、似た色の他人同士で、母親は排卵や生理の時に卵子という存在を意識する程度で、日常的にその存在を感じることはできない。もしかしたら寡黙な卵子はずっと何かを働きかけてくれていて、同じ気持ちや同じ景色を共有しているかもしれない。母親が見たもの、感じたものを卵子という細胞だって本当は分かっているかもしれない。というか私たちはひとつの個体としての命というより、たくさんの細胞ひとつひとつの命が集まってできた集合体のような存在かもしれない。例えば自分の意志で生きているのではなく、無意識のうちに卵子に操られて、生かされている可能性だってある。
 
《ハロー 遠い隣人 あまりに巨大な 銀河で出会う こんな小さな窓の中にも 届いたあなたの灯 ここにいるよ》
 
卵子に命が与えられ、胎児になったとして、子宮の中の胎児は母親にとっては自分の中にいるのだから、相当近い存在のはずなのに、無事に生まれるまではかなり遠くも感じる場合があると思う。子宮なんて最初は鶏卵程度の大きさで、臨月になったとしてもスイカほどの大きさだというのに、なぜか宇宙みたいに無限に広がっているように感じる。だから胎児と母親はとても近いようで、生まれるまでは手が届かないほど遠い。でもお互いに灯のような鼓動を発信し合っていて、「ここにいるよ」って感覚で伝え合って生きているのだと思う。子宮は宇宙みたいなもので、生まれてきた赤ちゃんは宇宙人みたいに感じたというような話をさくらももこさんのエッセイ(『そういうふうにできている』)で読んだ記憶がある。
 
《ああ 君と出会えて良かった きっとずっと出会いたかった ほんの一瞬だけだろうと 今 今 重ねた声》

《ああ もっと話せば良かった 言葉じゃなくたって良かった すれ違っただけだろうと 今 今 重ねた声》

 
後半の歌詞になると、胎児が子宮から生まれて、母親と出会えた瞬間が思い浮かんだ。子宮に授かる前、母親が生を授かった時からずっと出会いたいと待ち焦がれて我が子と出会う気がする。
幸運にも無事に生まれる命もあれば、授かったとしても流産や死産で長くは生きられない命もある。けれど一瞬だけでも、すれ違っただけでも、母子の命と命が重なった瞬間はたしかに存在する。それだけですごいことなんだよと慰めてくれている気がした。
子宮の中の胎児に話しかけても、言葉の返事はもらえないけれど、母親の多くは生まれる前から子どもに話しかけるだろう。言葉じゃなくても、おなかをさするだけでも、我が子を思うだけでも、きっと子どもには鼓動を通して母親の愛は伝わっている。そんな情景もイメージできた。
 
つまり『窓の中から』の歌詞を聴いて私は、卵子に生が与えられ、胎児という命になり、命が生まれるまでの、一連のいのちの経過を感じ取ることができた。《命》や《鼓動》という言葉の使用頻度が藤原さんの書く歌詞には多いからかもしれない。「いのち」を彷彿させることを意図してはいないとしても、「聴いてくれた人の日常に機能する曲」がバンプの曲だから、例えば妊婦や母親という立場の人たちがこの曲を聴いたとして、こんな風なイメージを膨らませて聴くのもありじゃないかと思った。

※登米の川と夕日

ここからはもう少し一般向けの角度から気になった歌詞の一部を見ていくことにする。
 
《綺麗事のような希望を いつもそばにいた絶望を》
《生み出してしまった希望を 頷いてくれた絶望を》

 
一般的に、「希望=ポジティブなもの、絶望=ネガティブなもの」と捉えられがちだが、藤原さんの表現だと、「希望が肯定すべきもので、絶望が否定すべきもの」とは思えなくなる。《綺麗事》はうわべだけという感じでやや皮肉な表現だし、《しまった》は後悔さえ感じさせる。逆に《そばにいた》、《くれた》と表現されると寄り添ってくれる味方のような存在に感じる。ちょっと言い回しを変えるだけで、希望の方がやや否定的で、むしろ絶望が肯定的なものに変わる。
 
藤原基央マジックというか、正(の感情)こそ疑いの目を向け、違った角度から捉え直し、負(の感情)は悪ではなく、それも含めて今の自分を生かしてくれたものと肯定し、ポジティブに捉えてくれる。藤原さんはすべてを悟っている仙人気質で、仙人だからこそ、支えとなる杖のような楽曲をたくさん生み出せるのかもしれない。
 
私はネガティブな方だし、特に自分のことは否定してしまう。他者からはあまり卑下しすぎない方がいいし、ネガティブな言い方は控えるべきだと指摘されることが時々ある。けれどひねくれ者の自分は、他者を否定するのではなく、自分を否定してネガティブになっているだけだからいいでしょと開き直りたくなってしまう。自分が太陽みたいに明るくて、希望ばかり語る前向きな人間になってしまったら、自分らしさがなくなってしまって、何も書けなくなると思う。いつもいじけて絶望と仲良くなって、ため息ばかり吐いて、独り言ばかり呟いている自分だからこそ、書きたい思いが募るし、傍から見れば暗くて後ろ向きな人間だからこそ、BUMP OF CHICKENと出会えたと思っているから、自分の性格はあまり変えたいとは思わない。もちろんそんな性格だから多少生きづらさはあるけど、藤原さんには、ネガティブも悪くないよ、そのままのあなた、君のままでいいよと認めて、赦してもらえる気がして、何度もバンプの歌詞に救われた。絶望がいつもそばにいて、頷いてくれると表現してくれた今回の楽曲は、確実に私の新たな杖になった。
 
言葉遣いが巧みで、言葉数が多く、歌詞が他のミュージシャンと比べたら長い方の藤原さんだが、「あーああ」や「ららら」といったあえて意味を持たせない単語も楽曲の中に潜ませることが多い。みんなの心を代弁してくれるような歌詞を書くのが得意なのに、余すことなく歌詞のすべてに意味を持たせようとはしない。
『窓の中から』においても、「あーああ」、「ららら」はかなり多用されている。「あーああ」はため息や独り言のような気がするし、「ららら」は誰かと出会って重ねた声のような気もする。誰しもがもつ言葉に表現できない《この胸だけの感情》、《名付けようのよう感情》、《涙になれなかった感情》、《他の誰とも分かち合えない全て》を楽曲内に用意された行間で思う存分、自分だけの唄をそれぞれが歌うために、あえて心情を言い当てずに、聴き手に楽曲の一部を委ねてくれているのだと思う。
 
藤原さんがライブでよく歌詞を変えて歌ってくれるように、好きなようにあなただけの唄を歌っていいよと曲に隙を与えてくれていて、聴き手がその時の気分次第で自由に思いを表現する余地を与えてくれている気がする。自分の感情を整理し、自分だけの感情を歌う時間を設けてくれているのだろう。藤原さんが歌詞を完璧に仕上げるのではなく、聴き手に任せてくれている部分もあるから、やさしいミュージシャンだと思う。(歌詞に行き詰ったり、歌詞を忘れたミュージシャンがその場しのぎで、ららら…などと歌うのとは訳が違うということ。バンプのららら、あーああは意図があって、あえてそう歌ってくれているはずだから。)
 
それぞれの人生や境遇に添ってくれる藤原さんの歌詞は、ダメな自分も自分のダメなところも、変われない自分も変わりたくない自分も、まるごと全部抱きしめてくれるから、本当に大好きだ。

※虹を見せてくれた太陽

前向きしか許さず、ネガティブを嫌う私の父は、おかしな厳しさがあり、杖なんて要らないだろ、自分の身体を鍛えて、身ひとつで生きろというタイプで、一方、ネガティブで心配性な私の母は、生まれる前から私に持ちきれないほど多くの転ばぬ先の杖を持たせてくれた。何しろ私を産む時、母は特に持病があったわけではないのに、流産しないようにと初期と後期に合わせて4ヶ月も病院に入院していたらしく、自宅にいる間も絶対に重い物は持たずに、ほぼ横になって過ごしていたらしい。その話を知った時、私は生まれる前からかなり甘やかされて生かされていたから、こんな甘ったれで臆病な人間に成長してしまったんだろうと妙に納得してしまった。逆に言えば、母が安静に過ごしてくれなければ、生まれることなく、あっけなく流れてしまった命だったかもしれない。それくらい自分は強くはなくて、弱い人間だと自覚している。すごく大事にされて望まれて生まれた命だというのに、弱い自分はただ息を吸って吐いてを繰り返して惰性に任せて生きている、何者にもなれなかった存在だから、母に申し訳ないとも思うし、惨めな気持ちにもなる。
 
生まれてから現在に至るまで、母は私にすべて用心するようにとたくさんの杖をお守りのように持たせてくれる。正反対な性格で両極端な両親の元で育った私は、母から杖を与えられ、父から杖を奪われながら生きていた。だから性格が歪んでしまったのかもしれない。いずれにしても親なりの愛情なんだろうけど、自分にはどちらもしっくりしなかった。だから私は自然と、自力でBUMP OF CHICKENという杖をみつけた。私には心の支えになる藤原仙人が生み出す杖が必要だった。視覚障がい者の人が使う、視覚の役目も果たしてくれる白い杖があるように、杖さえあれば見えないとしても、前に進むことができる。自分の足で前進する勇気をくれるのがBUMP OF CHICKENという杖。
 
太陽や希望など一般的に明るいとみなされるものの中に潜む卑しさ、夜や絶望など暗いものがくれるやさしさや温もりを教えてくれたのが藤原さんの歌詞だった。ポジティブなものこそネガティブに捉え、ネガティブなものこそ、ポジティブに捉えようとするちょっとひねくれてるところもセンスがいいと思う。
 
只今バンプはBUMP OF CHICKEN TOUR 2023 be thereというツアーの真っ最中。ライブそのものに参加予定はなかったけれど、グッズを買うため、会場の雰囲気を味わうためにライブ会場には足を運びたいと思っていた。宮城ライブが目前に迫っていた4月4日、久しぶりに持病の椎間板ヘルニアが悪化し、腰を本格的に痛めてしまった。立つこと、座ること、歩くこと、横になることすべての動作がままならず、いちいちズキズキ痛みが走るし、とてもあんなに広いライブ会場へは行けないと、グッズを買うことさえ断念することになってしまった。心の杖どころか、本当に身体を支える杖が必要なほど。杖をつきながら、無理してでも利府のセキスイハイムスーパーアリーナへ行こうかとも思ったけれど、運転中も何をしてても痛いため、泣く泣く諦めた。バンプのライブ会場へ行けない代わりに、部屋の中に閉じこもって、窓の外を眺めながら、二日間、窓の中でこの文章を書いて過ごしていた。

※腰痛のため、杖を使用する影

椎間板ヘルニアは時々発作のようにひどい痛みが出るから、手術でもしない限り、腰をなだめつつ、だましだましの暮らしをするしかなく、ライブに限らず、やりたいことができない場合が多い。持病があるから、できる仕事も限られている。もう20年くらいそんな生活を送っている。でも《痛くないことにした傷》のおかげで、バンプと出会えた今があるかもしれないから、この自分だけの痛みさえ受け入れながら生きていけたらいいと思う。
 
こんなにバンプという杖を必要として、バンプを聴いて生きているのに、いつものように相変わらずバンプに会えない、ライブに行けない私は、『窓の中から』という新たな杖に心身共に救われた。宮城公演前に、この楽曲がリリースされて良かった。この曲を知らないでライブに行けないのと、知っていてライブに行けないのとではきっとメンタルが全然違う。会場に行けなくても、この楽曲さえ聴いていられれば、一人でも大丈夫って思える。

※4月8日、登米の虹

ハロー、藤くん、私はここにいます。藤くんたちが仙台や利府にいてくれている期間、登米にいます。遠くにバンプという灯が見えたから、手を振りました。4月8日(土曜日)の夕方には虹も架かりました。藤くんたちもこの虹に気づいていたらいいなと思いました。私は窓の中で『窓の中から』を聴いて、ここで歌っています。バンプに会えなくても、藤くんがくれた魔法の杖があるから大丈夫と強がって生きています。『窓の中から』は1000人で歌って完成ではなく、誰かに届いたら完成すると藤くんは言っていましたね。私の元にはちゃんと届きました。みんなの元にも届いていると思います。だからものすごい最強で最高の杖が完成しましたね。しばらくこの杖を頼りに生きていけそうですが、欲張りな私は新たな杖もまたそのうちきっと欲しくなります。だから藤くんの新曲をずっと楽しみに、止まるまで続く鼓動に手を当てながら、生きようと思います。
 
4月12日が誕生日の藤くん、生まれてくれてありがとう。純粋に音楽をやりたくて、歌詞には興味なくて当初は、歌詞はどうでも良かったそうですが、藤くんの歌詞は多くの人の心に伝わるし、みんなの人生を支えてくれます。だからこれからもどうか藤くんがみつけた音符や言葉をつなげて、素敵な音楽と歌詞をリスナーの元へ、BUMP OF CHICKENの音楽として届けてください。
 
仙人のような藤くんが与え、教えてくれたBUMP OF CHICKENという杖が、私にとって生きるうえで何よりかけがえのない存在です。誰の心にもフィットするように藤くんが心を込めて作ってくれる杖の役目を担う魔法のような楽曲たちが宝物です。
 
『窓の中から』という曲は、会えなかった自分の子どもに届けたいと思いました。もしも自分に子どもがいたら、子守歌のように何度も聴かせたい楽曲だと思いました。
 
この楽曲と出会えたから、絶望は邪魔者ではなく、いつもそばにいて頷いてくれる、生きる上で大切な伴走者だと気づけました。絶望も自分を象る大切な一部なんだと。
希望ばかり信じすぎず、希望なんて綺麗事に過ぎなくて、絶望の方が核心をついていて、信用できる存在なんですね。希望を生み出してしまえば、同時に絶望も生まれるんですね。絶望は本来大切であるべき存在(希望)がくれるものだから、愛しむべきものであり、生きるうえで絶望とも仲良くした方がいいことを藤くんから教わりました。自分の思いが生み出した希望と絶望の両方を大事にしたいと思えました。
 
「絶望はいつもそばにいて、頷いてくれる(ありがたい)存在」
 
ふいに希望を生み出してしまったからこそ、自分の人生で一番大切なものを守り切れず失ってしまい、自分はどうしようもなく無力で愚か者だと絶望している今の私に必要な教えでした。
絶望に絶望しなくていいと教えてくれる希望の絶望論というか、藤くんらしい教えをこれからの人生の糧にして、私は次から次の今日を生きていきます。

※自分の部屋の片付かない出窓

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